ネットに落ちてたわな、「罠」 その5

研究者の辞表(13)送られなかった167枚」

SPEEDIの予測データはどう流れたのだろうか。(=上地兼太郎朝日新聞記者)
震災から約4時間後の3月11日午後7時3分、国は原子力緊急事態宣言を出す。首相官邸に原子力災害対策本部ができた。
経済産業省の原子力安全・保安院は、対策本部の事務局を担う一方、同省別館3階に緊急時対応センター(ERC)を立ち上げた。他省庁からも人がかき集められた。
SPEEDIの予測は本来、文部科学省が原子力安全技術センターを使って1時間ごとに行う。出来た予測図は保安院にも送られるが、保安院は独自の予測も出そうとした。それに向け、同日夜には同センターのオペレーターをERCに入れた。
保安院が独自で行った1回目のSPEEDI予測は午後9時12分に出た。翌12日午前3時半に福島第一原発2号機でベント(排気)をした場合、放射性物質はどう拡散するかという予測だ。放射性物質は南東の太平洋へ飛ぶ結果が出た。
12日午前1時12分に2回目の予測。今度は同時刻に1号機のベントを仮定した。これも海へ拡散していた。保安院は16日までに45回173枚の独自予測をはじき出した。

保安院の予測の特徴は、様々な情報を集めて放射性物質の放出量を推測したことだ。放出量を1ベクレルと仮定した文部科学省に比べ、予測の精度は高かった。

官邸の地下には、各省実働部隊が詰めるオペレーションルームがある。保安院は課長補佐以下の職員数人をそこに出していた。保安院から予測図を受け取る専用端末も備(そな)えられていた。
官邸5階には首相の管直人ら災害対策本部の中枢が陣取っている。避難区域を決めたのはこの中枢であり、その決定にはSPEEDIの情報を参考にすることになっている。ということは、予測図は専用端末を経て5階まで運ばれていなければならなかった。しかし・・・。

オペレーションルームの専用端末に送られたのは1,2回目の予測図だけ。保安院が独自で行ったSPEEDI予測のうち、43回167枚はERC内で止まっていた。
しかもプリントアウトして内閣官房の職員に渡したのは2回目の分だけだった。2回目の予測図はA4判で計3枚だが、そのうち何枚を渡したか、渡した後どうなったかも保安院は確認を取っていない。何故(なぜ)こんなことになったのか。

 研究者の辞表(14)二つの<やらねば>」

商業用原子炉の規制、監督をつかさどるのは原子力安全・保安院だ。今回の事故でも、保安院の動きは最大の焦点だった。(=上地兼太郎朝日新聞記者)
事故当時を知る幹部や現場職員に話を聴きたいと何度も依頼した。もちろん保安院には出向いて話を聞いた。関係者の自宅にも何度か手紙を出し、ときには玄関まで足を運んだ。

保安院の広報は「職員個人への取材はご遠慮いただきたい」と言ったが、当事者から聞かねば分からない事もある。保安院は「担当課から答えさせる」と強調しながら、その答えは常に要領を得なかった。
保安院はすでに民間人となった幹部OBへの取材も規制した。「事故当時のことはすべて担当課が答える」という理屈だった。

そんな中、事実の断片を積み上げながらSPEEDIをめぐる経緯を知ろうとした。匿名(とくめい)を条件に明かしてもらったこともある。

以下、今の時点で最も事実に近いと思われる経過はこうだ。
3月11日午後7時過ぎ。官邸に原子力災害対策本部ができた時、原発から5キロの場所に現地対策本部が作られた。原子力防災マニュアルでは現地本部が対策の中心だ。SPEEDIを使って住民の避難区域案を作るのもここの役割だった。

しかし現地本部は地震の揺れで通信回線が途絶していた。要員の集まりも悪い。とうてい、避難区域を検討できる状態ではなかった。
現地本部が機能しない場合、避難区域を考えるのはどこか。意図しないまま、保安院と官邸で重大な勘違いが生じていた。

東京・霞が関。経済産業省別館3階にある保安院の緊急時対応センター(ERC)は、避難区域の案を作るのは自分たちしかいないと確信していた。官邸に置かれた対策本部の事務局は保安院であり、その中核がERCだからだ。
放射線班が避難区域案作りを担当し、原子力安全技術センターに注文してSPEEDIの予測図をはじきだそうとした。住民の避難には放射性物質の拡散予測が欠かせない。班員らは必死だった。

一方、官邸5階に陣取る対策本部の中枢は違う考えを持っていた。現地が機能しなくなった以上、自分たちが避難区域を決めるほかない。官邸中枢はERCの存在を認識できないほどあせり、混乱していた。
時刻は11日の夜9時前後。ERCと官邸で、別々に避難案づくりが進んでいた。(=続く)

 研究者の辞表(15)官邸独断 室内は騒然」

事実に近いと思われることをさらに続ける。(=上地兼太郎朝日新聞記者)
3月11日午後9時12分、経済産業省別館にある原子力安全・保安院のERC(緊急時対応センター)は、独自に注文した1回目のSPEEDI(スピーディ)予測図を受け取った。
SPEEDIは放射性物質の拡散を最大79時間先まで予測できる。その能力をフルに使って将来の拡散範囲を予想し、危険地域にいる住民を避難させなければならない。

放出された放射性物質は風に流されるため同心円状には広がらないのが常識だ。何時間後、何処(どこ)に汚染が広がるか。ERCはSPEEDIの予測を続けて汚染区域を見極めようとした。ところが・・・。
その矢先の午後9時23分。原子力災害対策本部長の管直人は同心円状の避難指示を発する。原発から3キロ圏内の住民は避難、10キロ圏内の住民に屋内退避、という内容だった。

対策本部の事務局は保安院が担当し、その中核はERCだ。そこには全く連絡が無いまま、いきなり結論だけが下(お)りてきた。官邸中枢が独自の判断で決めたのだ。
避難区域の案を作っている最中に、一体どうしたことか。ERCは驚き、室内は騒然とした。官邸中枢が避難区域を決めてしまった以上、自分たちに役割はない。そう即断し、この段階でERCは避難区域案づくりをやめてしまう。

官邸中枢が発した避難指示は12日午前5時44分に原発から10キロ、同日午後6時25分に20キロと広がっていった。いずれも同心円状だった。
ERCは16日までに45回もSPEEDIの計算を繰り返すが、それは避難区域を決めるためではなく、官邸中枢が決めた避難区域について検証するためだった。

同心円状に広がらないのは原子力防災の常識なのに、同心円状に避難指示が出る。そのおかしさを感じながらERCはそれを追認した。発せられた避難指示を否定する根拠がない以上、追認が妥当と考えた。
その後、政府はこう強調した。放出された放射能量が不明だったのでSPEEDI予測はそもそも役に立たなかったのだ、と。ERCがSPEEDIを使って避難区域案を作ろうとしていたことは伏せられた。

同心円状の避難指示で最も矛盾が生じたのは、20キロ圏外にある放射線量の高い地域だった。SPEEDIの予測図では20キロ圏をはるかに超え、北西方向に高線量地域が伸びていた。


おわり つづく
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ネットに落ちてたわな、「罠」 その4

研究者の辞表(7)教えない、貸さない

飯舘村長泥(ながどろ)の区長、鴫原(しぎはら)良友(60)は福島市で避難生活を送っている。彼の記憶をさらにたぐる。

3月20日の数日前、長泥。白ワゴン車に乗る防護服男とのやり取り。

「車の中の男たちはみんな線量計を二つずつ持ってんだからあ、一つだけ貸さないかといったんだ。あの人たち、積算のやつと二つ持ってんだからな」

「線量計を見ないのかっていったら見ないんだっていうんだけど、貸さないんだよ。長泥地区にひとつ貸してくれ、おらが見て、みんなにこうだというからと」

「分かった。貸さねえんなら今度は掲示板書けといったんだ。それでもすぐには書いてくれなくてな。書いてもらうまでに1週間くらいかかった」

鴫原の要求で、やがて地区の掲示板に数値が載り始めた。さかのぼって載せたのだろう。17日が毎時95.1マイクロシーベルトで、18日が52、19日59.2、20日60、21日45、22日40、23日35、24日30、25日27……。

放射線量の低下に従い、男たちの格好は変化した。ガスマスクに防護服姿が、やがて普通のマスクに変わった。防護服もいつの間にか普通の作業服に替わっていた。

住民が普通に住む場所に防護服姿で乗り込み、測定値を聞かれても教えない。測定するから線量計を貸してくれ、と求められても貸さない。

傍ら、政府は安全といい続けた。

3月18日午前。官房長官、枝野幸男の記者会見。

「周辺の数値でございますが、部分的に大きな数字が出ているところはありますが、全体としては人体に影響を与える恐れのある大きな数値は示されておりません。若干高い数値が出ているポイントがございますが、ここについても、直ちに人体に影響を与える数値ではないと」

23日午後にはこう言った。

「30キロ圏外の一部においても、年間100ミリシーベルト以上の被曝(ひばく)線量となり得るケースも見られますが、現時点で直ちに避難や屋内退避をしなければならない状況だとは分析をいたしておりません」

住民は安全と信じて住み続けるほかなかった。鴫原はいう。

「防護服の男たちが来たとき、子どももいたよ。俺の孫もいたもんな。まあ、10人か20人いた」

防護服男は「文部科学省の下請け」的ないい方をした。彼らはなぜこれほど秘密主義だったのか。(依光隆明)

*2011.10.23朝日新聞朝刊
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研究者の辞表(8)「箝口令」と呼ぶ文書

一枚の文書がある。

旧日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)が1999年10月に出した。放射能の影響予測や放射線量のデータを公表する際のルールを記した一枚紙だ。

外部からデータの提供依頼があれば、依頼された者はデータ管理者にお伺いをたてる。管理者は部長に聞き、部長は所長に聞き、所長は副理事長に聞く。

副理事長がOKを出すと、逆の順番でOKが伝達され、安全管理室を通じて外部に提供される。注釈が付いていて、「学問的に十分な質であることを確認」とある。

要するに、相当に面倒な手続きを踏まなければ外部にデータを出せないことになっている。

「われわれはこの文書を『箝口令(かんこうれい)』と呼んだんですよ」

同機構労組の委員長を長く務める岩井孝(54)が説明する。同労組の略称は原研労組。機構には旧動燃系の原子力研究開発労組もある。

「自分たちが知った情報は、たとえ住民のためになることでも職務上の秘密だ、出すなということです」

文書が出たのは同年9月30日の東海村臨界事故直後。つまり、臨界事故に伴う各種データを流出させないためにこの文書が作られた構図になる。だから「箝口令」。

「あのとき、われわれの仲間が測りに行ったんですけど、なかなか国がそのデータを出さなかった。住民被曝(ひばく)の懸念を示すデータもあったのに、出さない」

個人で出せば処分が待っている。ならば組合でまとまってやればいいのではないか。そう考え、組合として住民に知らせるべき情報を出したりしたという。

同じようなことが、12年後の今も繰り返されている。

「原子力機構にはモニタリングや環境測定を仕事にしている人たちがいます。その人たちが動けない。だめだ、放射線量を測ってもデータを出せないんだという。なぜ出せないんだと聞くと、国が情報を管理するから機構として測っても発表できない、と上司にいわれたと」

データなんだから出さないのが間違っている、と岩井は憤る。

「出すべきものを出さない、だから国のいうことは信用されない」

「放射線量を書いたメモも廃棄しなくちゃだめだといわれているんです。外に流れたら困るからと」

一枚紙の時代とそう変わってないな、と岩井は思う。(依光隆明)

*2011.10.24朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(9)暴力団からスカウト

現在、放射線量を測るモニタリングの定点は文部科学省が決め、日本原子力研究開発機構の研究者らが計測に当たっている。

「研究者が単なる作業員になってるんですよね」。日本原子力研究開発機構労組(原研労組)の委員長、岩井孝(54)がいう。

「定点で測るのもそれはそれで意味はありますが、それ以外に、線量の高い場所などを探して歩くことが絶対に必要なんです。そういう意味では研究者は歯がゆい思いをしていると思います」

その歯がゆさを、辞職という手段で飛び越えたのが木村真三(44)だった。勤めていた労働安全衛生総合研究所に辞表を出し、縦横に動いて放射線を測定した。時には住民にデータを示して危険を説明した。

やっと得た職を辞してまで現場に行く。木村が思い切った行動を取った背景には、おそらく木村の反骨心と独特の経歴が影響している。

木村は愛媛県西南部、四万十川の支流に広がる広見町(現鬼北町)で生まれた。父は傷痍(しょうい)軍人の町職員で、厳格だった。母は保育園長。小学校から高校まで地元で過ごす。

実は相当な不良だった。

「小学3、4年のとき、いじめられている女の子をかばったら今度は僕が徹底的にいじめられたんです。中学に入ったときに思いました。こいつらよりもっとワルになったらこいつらをたたきつぶせる」

授業に出ず、体育館の屋根裏でたばこを吸った。けんかもした。北宇和高校に進んでも同じだった。けんかに勝つため体を鍛えに鍛えた。177センチの身長にがっしり筋肉がついた。一時はプロレス入りも考えた。

卒業間際には暴力団にスカウトされた。

「お前やったら頭も切れるけん、うちに来い。舎弟分の事務所が松山にあるから、そこで1カ月修業して、それからうちに来い、と。就職の誘いは暴力団だけでした」

父親は「お国のために死んでこい」といった。自衛隊に入れ、という命令だった。そのとき、木村は人生でし忘れていることはないかと考えた。そういえば勉強をやったことがなかった。大学に行きたいな。

もともと天文学者になる夢を持っていて、ぐれてからも天体観測を続けていた。物理学を学びたい、と思っていた。父親は「お前みたいなやつに勉強する資格はない」と怒ったが、母親が「私がお金を出します」といってくれた。(依光隆明)

*2011.10.25朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(10)伝える、それが救う道

異色の研究者、木村真三(44)の過去を続ける。

大学行きは決めたが、学力はない。愛媛の山あいから出た先は高知市だった。市郊外にある予備校の寮に入り、自転車で予備校に通った。

「一念発起して勉強しました。英語の偏差値は29から60まで上がりました。長文解釈が得意でした」

友人が「山口県に東京理科大の短大ができる。そこなら理科大に進める」と教えてくれた。助言に従ったものの、当初は素行不良だった。

「1年の夏休み明けに面接があって、進学したいって言うと、行けるところはないと言われたんです。そこでまた一念発起して。助教授に『生活改め表』を書 けと言われて書いて、必死に勉強した。自分より成績の低い仲間が東京理科大への編入を決めていくのに反発し、国立に行く、九州工大を受ける、と」

推薦をくれた教授が「お前は二部(夜間)で働く人の大変さを味わってこい」といった。合格し、九州工大の二部に3年から編入する。働きながら熱心に学ぶ人たちの姿は目からうろこの驚きだった。

「これはほんとに勉強せんといけんなあと思いました」

専攻は金属材料で、物理と化学の両方を学んだ。学内で技術補佐員の仕事を見つけ、昼は分子構造の解析プログラムをつくったりした。

卒業が迫り、工業高校の教師を目指すか大学院への進学を考えていた。と、推薦状をくれた山口の教授から電話が入る。「お前、来週からうちの大学の助手だから。もう教授会で決まった」

いや応なく山口に戻り、助手を務めた。1年後、大学院への思いが募り、石川県の北陸先端科学技術大学院大に。体内の薬物伝達を研究し、2年で修士課程を修了。博士課程は北海道大に進み、パーキンソン病のメカニズム研究で博士号を取る。

妻の実家が会津の出ということもあり、木村は3月から福島に半ば入りっぱなしで内部被曝(ひばく)調査や汚染地図づくりに取り組んでいる。

木村の信念は「研究成果は住民のもの」だ。仮に深刻な値であっても住民に知らせ、意味を説明することが人々を救う道だと信じている。

だが、木村の考え方は多数派ではない。たとえば3月18日、日本気象学会は会員に研究成果の公表自粛を呼びかけた。「防災対策の基本は、信頼できる単一の情報に基づいて行動すること」が自粛の理由だった。(依光隆明)

*2011.10.26朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(11)ピンポイントの指示

放射線衛生学の研究者、木村真三(44)らが福島に入った3月15日は、朝6時すぎに福島第一原発の2号機が破損、大量の放射性物質が放出されていた。

原発から5キロの場所には11日夜に国の現地対策本部ができていた。しかし14日夜には2号機の状態を懸念して撤退方針を決める。同日夜から撤退を始め、15日午後には原発から60キロ離れた福島県庁に退いた。

撤退組の一人、渡辺眞樹男(57)は福島県庁に移った後の15日夜に指示を受けた。「大変な事態になっている。測定に行ってくれ」

渡辺は文部科学省茨城原子力安全管理事務所から応援に来ていた。指示された場所は浪江町山間部の3カ所。ピンポイントだった。神奈川北原子力事務所の車 で現地に行き、午後9時ごろ放射線量を測る。数値を見て驚いた。3カ所とも高く、特に赤宇木(あこうぎ)は毎時330マイクロシーベルト。

「いやもう、信じられなかった」と渡辺は振り返る。すぐ報告しようとしたが、携帯はつながらない。雨模様だったので衛星携帯も使えなかった。急いで川俣町の山木屋まで戻り、公衆電話から報告をした。戻る途中、点々と人家の明かりが見えた。まだ大勢の人が残っていた。

「とにかく住民の方々に被曝(ひばく)をしてほしくなかった。線量が高いと報告し、早くこの線量を発表してください、とお願いをしました」

実はこのとき渡辺は防護服を着ていなかった。県庁への撤退が慌ただしかったため、防護服の類は現地本部に放棄していたからだ。

「不思議と自分のことは考えていないですよね。こんな時だからこそやらなきゃいけない、と」

必死の思いで渡辺が伝えた数値は、しかし住民避難に使われはしなかった。文科省は16日にその数値を発表したが、地区名は伏せたまま。浪江町に知らせる こともなかった。町は危険を認識せず、一帯に残る住民に伝えることもなかった。なにより官房長官は「直ちに人体に影響を与えるような数値ではない」と会見 で述べていた。

それにしても、なぜ対策本部は高線量の場所をピンポイントで知っていたのか。渡辺は言う。「ポイントをどなたが決めて指示されたのか、私もいまだに分かりません」

元をたどると、指示は文科の本省だった。根拠に使われたのはSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)。同省は汚染の概要をつかんでいた。(依光隆明)

*2011.10.27朝日新聞朝刊

研究者の表(12)いきなり同心円避難

3月15日、毎時330マイクロシーベルトの値が出る場所を、なぜピンポイントで指示できたのか。(=依光隆明朝日新聞記者)

東京・霞が関の文部科学省。時に身ぶり手ぶりを交えながら、科学技術・学術政策局次長の渡辺格(いたる)さん(53歳)説明する。「実は、単位放出のSPEEDIを使いました」。

SPEEDI(スピーディ)とは、放射能の影響を予測するシステムのことだ。放出された放射性物質がどう広がるのか。風向きや風速、地形を計算し、飛ぶ範囲を予測する。

放射性物質は同心円状には広がらず、汚染エリアは複数の突起を形成する。そのエリアをSPEEDIで予測し、迅速に住民を避難させなければならない。それが原子力防災の基本中の基本とされている。

予測の基(もと)になるのは、原発からの放出源情報だ。ところが今回の事故ではそれが入手できなかった。

しかし、そういう事態でも仮の値を入力することで予測ができる。それが、1時間に1ベクレル放出したと仮定する「単位放出」で計算するやり方。渡辺さんはその手法で正確に高汚染地域を把握していた。

渡辺さんが特殊な手法を用いたわけではない。原子力安全委員会が定めた指針では、事故発生直後は放出量を正確に把握することが難しいため、単位放出または事前に設定した値で計算するとある。そうして計算した予測図形をもとに、監視を強化する方位や場所を割り出していく。

「単位放出で情報を流す、という点ではマニュアル通りでした。放出量が分からないときに単位放出を各関係者に配るというのがマニュアルになっていましたから」。

マニュアルによると、配る先は一部の省庁と原子力安全委員会、福島県、そして現地対策本部。「実際に避難範囲を決める場合、SPEEDIを使ったのかどうかは文部科学省では分かりません。避難範囲を決めたのは文科省では無く、原子力対策本部ですから。今回は本来の使い方はされず、いきなり同心円状で避難の指示がなされた」。

マニュアルでは文科省は情報を出すだけで、それを使って避難指示を出すのは原子力災害対策本部、つまり官邸だ。

しかし、首相の管直人も、経済産業大臣の海江田万里も、官房長官の枝野幸男もSPEEDIを知らなかったと主張する。特に海江田と枝野は20日過ぎまで知らなかったと国会答弁している。いったいどうなっていたのか。



またつづく

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ネットに落ちてたわな、「罠」 その3

 研究者の辞表(1)測定 まず僕が行く

 3月11日午後。地震の瞬間を、木村真三(44)は川崎市にある労働安全衛生総合研究所で迎えた。

 研究所員の木村は、放射線衛生学の専門家。医師や看護師の被曝(ひばく)調査や、チェルノブイリ事故の現地調査に取り組んでいた。

 大きな揺れの後、木村はテレビに駆け寄って「原発どうなった!」と叫んだ。大丈夫、とテレビは報じていた。千葉県市川市に住む家族とは翌日の午前2時まで連絡が取れなかった。

 翌12日は土曜日だった。家族と会うことができ、午後は3歳の長男と買い物に出かけた。家に戻ると、妻がいった。「原発が爆発した」。瞬間、木村は反応していた。スーツに着替え、長男に「お父さん、しばらく帰ってこないから」と告げた。

 研究所に戻って現地入りの準備をした。住民を放射線から守るにはまず測定しなくてはならない。それには速さが求められる。時間がたてばたつほど測定不能となる放射性物質が増える。急ぐ必要があった。

 準備を急ぎながら、木村は最も信頼する4人の研究者にメールを出した。京大の今中哲二、小出裕章、長崎大の高辻俊宏、広島大の遠藤暁。

 「檄文(げきぶん)を出したんです」と木村は振り返る。

 「いま調査をやらなくていつやるんだ。僕がまずサンプリングに行く。皆でそれを分析してくれ、と書きました」

 えりすぐりの人たち、と木村はいう。

 「全員、よし分かったといってくれました。一番返事が早かったのは小出さんです。私は現地に行けないけれども最大限の協力をします、と。あとの人たちからも次々と返事がきました」

 木村はその檄文を七沢潔(54)ら旧知のNHKディレクター3人にも回した。測定したデータを公表する手段が要る、と考えていた。

 じきに携帯電話が鳴った。七沢だった。七沢は七沢で知り合いの研究者と連絡を取りまくっていた。七沢はいった。「特別番組を考えている。協力してくれないか」

 13日に市川で七沢と会った。打ち合わせを終えて七沢と別れたとき、携帯に研究所からの一斉メールが入った。研究所は厚生労働省所管の独立行政法人。文面にはこうあった。

 〈放射線等の測定などできることもいくつかあるでしょうが、本省並びに研究所の指示に従ってください。くれぐれも勝手な行動はしないようお願いします〉

 研究所に放射線の専門家は自分しかいない。これは自分に向けて出されたメールだ。木村はそう思った。自分の現地入りをとめるつもりだ、と理解した。(依光隆明)

*2011.10.17朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(2)家人には一切いわず

 木村真三(44)は、1999年に起きた茨城県東海村の臨界事故を思い出した。

 当時、木村は千葉市にある放射線医学総合研究所に勤めていた。同僚とすぐ調査に行こうとしたが、許可が出ない。休日に有志で周辺を調査し、本格的な調査に向けて根回しを始めた。と、上司から「余計なことをするな」と大目玉を食らう。

 「3月13日のメールを見て放医研のときと同じだなと思いました。同じことを繰り返したら死ぬまで、いや、棺おけに入っても後悔する」

 出した結論は、労働安全衛生総合研究所を辞めることだった。

 「家人には一切いわず、すぐ研究所に行って総務課長の机の上に辞表を置いてきました」

 軽い決断ではなかった。任期5年の満期で放医研を辞めた後、木村は専業主夫を経て塗装工になった。雨の日以外は土日もなく働いた。ただ、ときどき休みをもらった。

 「明日はつくばで論文書かないかんのよとか、京大で実験に入るからとか。研究者公募情報はずっとチェックしていました」

 1年半後、公募情報で労働安全衛生総合研究所がアスベストの研究者を募集していると知る。「アスベストの中皮腫はプルトニウムによる症状とよく似てるんです。で、アスベストは知らんけど放射線は知ってると書いたら採用されました」

 そのとき40歳。正職員になったのは生まれて初めてだった。悪い職場ではなかった。「労働衛生と関係ないからチェルノブイリ調査事業は廃止を」と求められた際も泣く泣くのんだ。「事業は廃止になるが、自腹でも調査を続ける」と仲間にメールしたのは原発事故直前。研究者が職を得る苦労は身にしみていた。

 それだけに、職を手放したことは妻に言えなかった。思い切って打ち明けたのは3月の終わり。妻の言葉は「あなたらしいわね」だった。

 NHK教育テレビのETV特集ディレクター、大森淳郎(53)は、原発事故の直後から関連番組づくりを考えていた。行き着いたのは、原発に詳しい七沢潔(54)を呼ぶこと。七沢は現場を離れ、放送文化研究所の研究員を務めていた。3月14日、プロデューサーの増田秀樹(48)に相談すると、「すぐ呼ぼう」。

 その日の夕方、七沢と木村が東京・渋谷のNHK6階に現れた。木村は測定器や防護用品をたくさん抱えてきて、「明日から行くんです」と主張した。(依光隆明)

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研究者の辞表(3)雨がっぱとゴム長

 3月15日。木村真三(44)とNHKの七沢潔(54)、大森淳郎(53)は、ロケ用のワゴン車で福島に入った。

 途中、ゴム引きの雨がっぱとゴム長靴を買い求めた。人がいる地域に防護服で乗り込むのは違和感がある、と考えた。

 長靴をはき、その上からポリ袋をかぶせて雨がっぱとの間を粘着テープでしっかりとめた。木村の指導だった。マスクも活性炭入り、5層構造の品を木村が用意した。

 放射線量を測り、検査用の土を採取しながら福島第一原発の方向を目指した。汚染はまだら模様だった。毎時300マイクロシーベルトまで測定できる機器の表示が振り切れる場所もあった。原発に近い割には線量が低い場所もあった。

 開いていた三春町の旅館に泊まりながら、とりあえず原発周辺を3日間走り回った。その後、ETV特集プロデューサーの増田秀樹(48)も加わって29日まで断続的に現地調査を続けた。目的は放射能汚染地図を作り、番組にして流すことだった。4月3日の放映を目指した。

 番組放映までの歩みは平坦(へいたん)ではなかった。22日、局内の会議で企画そのものがボツになった。増田はあせった。4月3日のETV特集に穴が開く。かといって震災と関係ない番組はやりたくない。七沢らと話し合い、三春町に住む作家、玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)とノンフィクション作家、吉岡忍の対談を番組にして放映することを決める。それが24日だった。

 だが、放射能汚染地図を柱とした番組づくりもあきらめてはいなかった。25日、増田が大森に連絡した。

 「30キロ圏内も入れるぞ」

 NHKは30キロ圏内入りを自主規制していた。入れるというのは勘違いで、のちに増田は始末書を取られることになる。大森は郡山で借りたレンタカーを運転して浪江町や葛尾村、南相馬市を駆けまわった。

 大森は昨年夏、「敗戦とラジオ」という番組を作っていた。その中で感じたのは大本営発表の危険性だった。戦時中、なぜ報道機関は大本営発表しかできなかったのか。

 大森は戦時中の「勝った」「勝った」という大本営発表が、今の政府の「大丈夫」「大丈夫」と重なってしようがなかった。大本営的発表があったとき、それを疑わないと意味はない。あとで振り返っても何にもならない。たとえ厳しい放射線値が出ても、本当の数値を報じることが重要ではないか。そんな思いに突き動かされていた。(依光隆明)

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 研究者の辞表(4)「これは棄民だ」

 3月27日。NHKの七沢潔(54)と大森淳郎(53)はレンタカーで浪江町の山間部を走っていた。

 昼曽根トンネルを西に抜けた辺りで毎時20マイクロシーベルトまで測定可能な表示が振り切れる場所があった。まさか人はいないよなあ、と2人で一軒の家を訪れると人がいた。

 なぜまだここにいるのか。驚いた七沢が尋ねると、「町が何も言ってこないから」。

 元板前の天野正勝(70)。20キロ圏外なので、ここは安全だと信じていた。心臓に不安を抱え、避難所には行けないとも思っていた。

 妻と犬と一緒だった。電話が通じないため、誰とも連絡が取れない。携帯が通じる場所まで行ったら親戚に電話してくれ、と頼まれた。

 天野は「近くの赤宇木(あこうぎ)集会所に10人くらいが避難している」と教えてくれた。すでに夕暮れだった。

 集会所を訪れると、12人の避難民が暮らしていた。警戒された。「ほんとにNHK? 私たちを追い出しに来たんじゃないの、と」(七沢)。七沢と大森が持つ線量計の積算値はぐんぐん上がっていた。ここは放射線量が高いです、と言っても12人には信用されなかった。

 それぞれ事情を抱えていた。ペットがいるため避難所に行けない人がいた。隣の体育館には夫婦がいて、段ボールで囲った空間で暮らしていた。妻は足が悪くてポータブルトイレしか使えない、だから皆と一緒には暮らせなかった。夫は心臓の薬が切れたといっていた。

 大森がぽつりといった。「これは棄民だ」。行き場のない12人。正規の避難所ではないため、食料も自分たちで調達していた。

 夜。別行動をしていた木村真三(44)に集会所のことを伝えた。木村は言った。

 「調査は一時中止しましょう。僕が避難を説得します。説得しないと僕の仕事はない」

 翌28日。赤宇木集会所前の駐車場で放射線量を測ると、毎時80マイクロシーベルトあった。木村は驚いた。この数値は人が住めるレベルではない。集会所の中に入り、マスクを外して危険を説明した。所内の線量も毎時25~30マイクロシーベルトあった。

 「線量計の数値を見せ、初めて皆が納得したんです。それまでにも警察や役場が『危ない』と言ってきたが、数値を示したことはなかった。数値を見せたから納得したし、僕が専門家だったことも大きかった」(依光隆明)

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 研究者の辞表(5)放射線量も赤裸々に

 木村真三(44)と調査を続けながら、NHKの七沢潔(54)と大森淳郎(53)、増田秀樹(48)は4月3日の番組づくりを急いでいた。

 もともと汚染地図の作製を番組にする計画だったが、3月22日の会議で企画自体がボツになっていた。急きょ考えたのが、福島県在住の作家、玄侑宗久とノンフィクション作家、吉岡忍の対談。対談の合間に、赤宇木(あこうぎ)集会所に避難している12人の情景を入れることにした。

 赤宇木の放射線量が異常に高いこと、そこに12人が避難していることは27日に七沢と大森が見つけ、28日に木村が避難を呼びかけていた。12人は30日に避難するのだが、その前日、29日に吉岡を集会所に連れて行き、30日の避難もカメラに収めた。

 それから編集。普通1カ月かかるのを3日で仕上げた。若い局員も手伝い、5人で寝ずにやった。「でき上がったのはオンエアの30分前でした」と増田はいう。

 赤宇木のシーンは視聴者に大きな感銘を与えた。

 「NHK内部で取材規制の内規を見直す契機にもなりました。30キロ圏や20キロ圏の中に入って取材するべきじゃないか、と。1週間後の4月12日、内規は変更になりました」

 4月3日の番組が成功したのを背景に、増田らは当初の目的だった番組を実現させる。ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」。放映は5月15日深夜。こちらの反響はさらに大きかった。

 「視聴者から電話が1千件きました。実態が分かった、こういう調査報道こそやってほしい、なぜ深夜にやるんだ、などでしたね」

 発表に頼らず、独自に調査したことが大きかったと増田は振り返る。

 「赤裸々というか、番組では放射線の数字も含めて出しています。政府はパニックを心配していたようですが、実際は逆でしたね。自分たちがどんな状況にあるのか知りたい、という意見が多かった」

 七沢はいう。

 「こんな所までよく来てくれた、と取材中も喜ばれるし、放送した後にありがとうって言われるんです。見た人からありがとうと言われる番組なんて、やったことがない」

 たとえ厳しい数字が出ても、本当のデータを知りたい。増田にはそんな声が届いたという。住民は情報に飢えていたことになる。

 情報はなぜ末端に届かないのか。赤宇木のお隣、飯舘村長泥(ながどろ)ではこんなことがあった。(依光隆明)

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 研究者の辞表(6)車から出てこいって

 原発事故後、浪江町山間部に隣接する飯舘村には南相馬市からの避難民が集まっていた。

 避難してきた人たちに食料が要る。飯舘は村ぐるみ救援に動いた。同村長泥(ながどろ)の地区長を務める鴫原(しぎはら)良友(60)も、地区の家々に米1升ずつの供出を頼んで回った。

 集まった米を炊き、長泥の人たちは握り飯を握って避難した人たちに届けた。3月15日が600個、16日と17日は300個。

 「放射能? そんな意識は全然なかった。原発の交付金も来なかったが、放射能も来ない、そんなふうに信じ切っていたな」

 村の南端にある長泥は、高原地帯に約70軒が点在している。原発からは33キロも離れていて放射能とは縁遠いはずだった。ところが……。

 長泥の南東は浪江町赤宇木(あこうぎ)で、その隣が昼曽根。福島第一原発から見ると北西に昼曽根、赤宇木、長泥と続く。飛散した放射性物質は、それら北西方向の集落に落ちていった。

 「見てみな、3月17日のデータ。毎時95マイクロシーベルトあったんだ。あんとき、おら握ってたんだよ、おにぎり」

 95という値が出ていることも、数字が持つ意味も長泥の人々には知らされていなかった。そればかりではない。鴫原の脳裏には腹立たしい記憶が刻まれている。

 3月20日の数日前と記憶している。地区中心部に白いワゴン車が止まっているのに気がついた。

 「2時間くらいいたんだ、最初。車止めてな。車から棒出してんだ。白い防護服着て。ガスマスクして」

 車から出ることもあったが、すぐまた車に入ってしまう。

 「ちょっと出てきて話しろっていったんだ。おらはこのまんまだから。マスクもしねえで」

 30キロ圏の外は全く安全なはずだった。そこにガスマスク防護服男が現れ、車から出ずに棒を出して測定する。異様な光景といっていい。

 「どうなんだっていっても答えない。線量の数値も教えない。どうなんだっていったらたばこ吸ってんだよ。ふざけんなこのやろうって思って追及したんだよ。文部科学省の職員なのかって聞いたら違うと。なんでこんな車さ。文科省の職員じゃないのかといったら違うと」

 やがて押し問答に。

 「わあわあといってるうちに、今度は下請けなんだと。下請けの下請けなんだと。上さ聞かないとだめだと」(依光隆明)



つづく


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ネットに落ちてたわな、「罠」 その2

防護服の男(7) 早く東京へ来なさい

東京に住む娘の携帯電話の指示で転々と避難を続けた者もいた。菅野みずえの家に避難した門馬洋(もんま・ひろし)(67)と昌子(しょうこ)(68)の夫婦だ。

 自宅は浪江町の権現堂地区で、原発まで10キロない。3月12日朝、町の防災無線が「津島に逃げてください」と避難を呼びかけた。車で知り合いのみずえの家に避難した。

 菅野家には昼前に着いた。昌子はみずえの炊き出しを手伝い、お握りを握った。夕食後、25人の避難民たちが自己紹介しあった。知り合いが何人もいた。

 みずえから白い防護服の男たちの話を聞かされたときは、夫婦はずるずる居残った。

 しかし、翌13日朝、再びみずえから逃げるようにいわれ、昼前に菅野家を出発した。

 とにかく北へ逃げようと、南相馬市を目指した。コンビニも商店も閉まっていた。レストランを見つけた。納豆定食が残っていたので、それを食べた。3軒のホテルに断られ、ようやく見つけたホテルに泊まった。

 14日夜、福島空港から飛行機に乗り、15日に東京の長女と合流した。

 長女の真理子(36)は地震のあと、両親の携帯を呼び続けた。11日の地震直後に、一度通じただけで連絡が途絶える。あとはメールだけだった。

 しかし、メールの返信も途絶えた12日の午前8時43分。

 「お父さんとお母さんの無事を神様にお祈りしています」

 テレビやインターネットで、原発事故の新しい情報を必死で探し、両親に送り続けた。

 1号機が水素爆発した12日の午後9時。真理子はテレビで専門家が「大丈夫」と言っているのを聞いた。「爆発は外壁だけで、放射能をまき散らすものではなかったと判明」。そんなメールを送った。大変な誤りだった。

 両親が南相馬市に再避難した13日には「女川原発まで放射能が飛んでいる。そこも危ない。東京に来なさい」。

 そして14日の正午。「3号機が11時半に爆発した。早く東京へ」

 父は「そこまで行かなくてもいいじゃないか」と返してきた。真理子は「とにかく早く来なさい!」と叱った。

 責任のある人たちは、だれも両親を助けてくれようとしなかった。真理子にはその不信感だけが残る。(前田基行)

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防護服の男(8) 「ふるさと」歌えない

 菅野みずえの家に避難した門馬洋(67)は元高校教師だ。福島第一原発がつくられた40年前から反原発運動にかかわっていた。

 当時住んでいた楢葉町(ならはまち)の町営住宅に、住民3人が集まって始めた運動だ。県知事や町長らに危険性を訴え続けた。東京電力とは数年前から毎月1回交渉し、3月22日も交渉が予定されていた。

 原告404人で隣の福島第二原発について裁判を起こしたが負けた。そのとき仙台高裁の裁判長が述べた言葉を今もはっきり覚えている。

 「反対ばかりしていないで落ち着いて考える必要がある。原発をやめるわけにはいかないだろうから」

 それから21年。原発は安全だという幻想はあっけなく崩壊した。

 「東京電力の想定がいかに甘いか。そのために多くの人に、どれだけの被害を与えたか。いったいどう責任を取るつもりなのか」

 しかし、浪江町が今回の事故で「殺人行為だ」と国や東京電力を非難していることについても、同様に違和感がある。

 浪江町にも、東北電力の原発建設計画が40年前からあった。浪江町議会が誘致を求めていたものだった。

 昨年、町内会の会合で町議が洋を見ながらいった。「原発で浪江町の未来は明るくなる。門馬先生は反対でしょうが……」

 7月に一時帰宅したとき線量を測った。家の近くで毎時4マイクロシーベルトあった。

 畑には大きな柿の木がある。長女の真理子(36)が生まれたときに植えたものだ。300個以上の実をつけた年もあった。

 「もう実がなっても食べられませんね。汚染されてしまったから」

 30年ほど前、町内の体育館を借り、東京の劇団を呼んで放射能漏れ事故をテーマにした劇をやったことがあった。原発事故で町民が逃げ惑うというストーリーだった。それが現実になった。

 夫婦は東京都北区の団地に身を落ち着けている。

 家賃は13万5千円と高いが、長女の家の近くに住むため、そこに決めた。東京電力からもらった仮払金100万円を家賃の支払いにあてる。

 洋は福島にいたころから合唱が好きだった。7月、北区で合唱団の催しがあるのを知り、妻の昌子(68)と参加してみた。

 兎(うさぎ)追いしかの山、の「故郷(ふるさと)」を歌った。洋も昌子も途中で歌えなくなった。(前田基行)

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防護服の男(9)

 浪江町の赤宇木(あこうぎ)地区に住む三瓶(さんぺい)ヤスコ(77)は隣の飯舘村から嫁いで55年になる。菅野みずえとは公民館の民謡サークル仲間だ。

 ヤスコは8月初めまで、細い山道を上った一軒家に1人で住んでいた。

 地震直後は、神奈川県の孫娘の1DKのアパートに、富岡町の長女と孫息子の3人で避難した。

 しかし、隣室の食事の音まで聞こえる。周りにも気を使う。「この年になると都会の生活は合わない」。犬と猫のことも気になり、4月末に赤宇木に戻った。

 そのころは、まだ地区に数世帯が残っていた。そのうち1軒減り、2軒減り、誰もいなくなった。警察が30キロ付近で通行規制を始めると、車も通らなくなった。

 さみしくなった。夜は真っ暗だ。何も考えないように思っても手が震え、食べ物がつかえた。

 気晴らしに近くをドライブした。しかし、帰り道はどの家も明かりはない。山道を落ちてもだれも助けにきてくれないと思うと、ドライブが怖くなった。

 日曜になると、背中に「文部科学省」と書かれた作業服の男たちが、地区に放射線量を計測にきた。ヤスコは車がくると出て行き、「今日はなんぼですか」と尋ねる。

 「15マイクロシーベルトだよ」。男は気軽に教えてくれた。

 「私の家も測ってくれんかね」

 別の日、男は家の周辺を測ってくれた。家の外で10マイクロシーベルト、居間で5.5マイクロシーベルトあった。平常値をはるかに上回る量だ。

 男はそれを紙に書いてヤスコに渡した。

 6月初めのある日曜日、男がポツリと言った。

 「今だからいうけど、ここは初め100マイクロシーベルトを超していたんだ。そのときは言えなかった。すまなかった」

 その後も、男は「参考にして」といって、各地域の放射線量が書かれた地図をヤスコにくれた。

 だが、ヤスコは8月初めまで赤宇木にとどまる。

 「放射能は目に見えるわけでないし、数値を聞いてもよく分からなかったのよ」

 8月初め、二本松市の仮設住宅に当たったため、赤宇木を出た。

 しかし、今も2日おきに、約25キロ離れた自宅まで車で通う。

 犬と猫にえさをやるためだ。

(前田基行)

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防護服の男(10)口止めされた警察官

関場和代(52)は3月14日、会津若松市の親類宅に避難した。家は菅野みずえの家に近い浪江町南津島にあった。

 その後も避難指示がないため4月2日、ひとまず自宅に戻った。数日して、家の前に自衛隊のジープがとまり、隊員が降りてきた。安否確認で来たという。

 そのころ浪江町の放射線量が高いことが報道されていた。それが心配で、おそるおそる尋ねた。

 「この辺の線量はどのくらいですか」。隊員はにっこり笑い、ここは大丈夫だと答えた。

 「私たちは線量計を付けています。1日にどのくらい線量を浴びたか分かるんですよ」。和代はそれで安心した。家に閉じこもるのをやめ、近所に出かけていった。

 4月17日。近くの橋の上にいると、男が近づいてきた。フリージャーナリストの豊田直巳(55)だった。和代が、自宅の線量を測ってほしいと頼んだ。豊田は敷地のあちこちを測りはじめた。

 玄関の雨どいの下を測ったとき、豊田が「ワッ、これは大変だ!」と叫んで立ち上がった。

 ためらう豊田に、和代は「本当のこといってください」と頼んだ。

 「2時間いたら、1ミリ吸います」と豊田は答えた。

 豊田によると、そのときの線量は毎時500マイクロシーベルトを超えていた。2時間いただけで年間許容量の1ミリシーベルトを超える値だ。

 具体的な数字を初めて聞かされ、大変なことだと初めて自覚した。和代はあわてて身支度し、豊田に見送られて家を飛び出した。

 数日後、ネコを引き取りに再び家に帰った。警視庁のパトカーが敷地に入ってきた。

 「ここって高かったんですね」と30代ぐらいの警察官に聞いてみた。

 「そうなんです、高いですよ。でも政府から止められていていえなかったんです」

 警察官はそう答えた。

 和代はびっくりした。ジープの自衛官がいったことは何だったのか。

 「もし自分の家族だったら、同じことがいえますか。真っ先に逃がすでしょう。私らのことは、しょせんひとごとなんですかね」

 7月、中国の高速鉄道事故で証拠隠しが発覚した。日本のメディアは中国政府の対応を厳しく批判した。和代は腹が立ってくる。

 「日本だって同じじゃないの」(前田基行)
 
*2011.10.13朝刊

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防護服の男(11) あの2人のおかげで

菅野みずえの家に避難した25人は、「白い防護服の男」の情報とみずえの判断でそれぞれ再避難し、危険な状況から逃げることができた。

 大量の放射性物質が飛び散り、住民が被曝(ひばく)するかもしれない緊急の時期だった。しかし政府も東京電力も、それを住民に教えなかった。

 しかし25人は、混乱を起こすこともなく、冷静に動いている。

 みずえは今、福島市に近い桑折町(こおりまち)の仮設住宅で暮らす。

 「ほら、見てください」。みずえは空き地で遊ぶ子どもたちを指さす。

 「あんな小さな子が、避難生活の苦労を背負ってこれから生きていくんですよ。もし被曝していたら……」

 それにしても、あの白い防護服の男たちは一体だれだったのか。みずえは今も考える。

 そのころ福島県内は、文部科学省や福島県、日本原子力研究開発機構、東京電力、東北電力などの計測車が走り回っていた。

 例えば新潟県からの応援車もきていた。3月12日夕のちょうどその時刻、津島地区を通っている。

 新潟県の職員2人は、原発事故対応の支援のため、ワゴン車に乗って福島県に入った。114号を浪江町に進み、津島地区を通った。午後4時ごろ、その先の川房地区で警官に止められて引き返している。

 その職員に話を聞くことができた。ただ、内部被曝してしまったので、名前が出るのは困るとのことだった。

 職員によると、当時、測定器は激しく鳴りっぱなしで、焦っていた。

 津島地区を通ったとき、車がたくさん止まっていたので避難所だと思った。

 「防護服? いいえ、着ていませんでした。車を降りてもいません」

 14日未明には、放射線医学総合研究所のモニタリングカーが津島地区を通過している。まだ大勢の避難民がいたころだ。

 車には測定器などを積み込んでいたが、「資材を運ぶのが目的だった。放射線量は測っていない」(広報課)という。

 みずえが会った2人は、そうした計測チームの一つだった可能性が高い。

 「あの2人の警告のおかげで逃げられた。それをなぜ国や東京電力は組織としてしてくれなかったのだろうか。もっと多くの人が逃げることができたのに」(前田基行)

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防護服の男(12)区長は逃げなかった

菅野家の25人が再避難した3月13日、下津島区長、今野秀則(64)は、家を訪ねてきた菅野みずえから白い防護服の男の話を聞かされた。

 しかし、逃げなかった。確かな情報もなしに右往左往すべきではないと思った。なにより、区長として先に逃げるわけにいかなかった。

 3月15日の午前10時。津島支所の対策本部に呼ばれ、支所が二本松市に避難すると告げられた。

 なぜだ。原発から30キロ離れた津島は安全のはずではなかったのか。しばらく事態がのみ込めなかった。

 そのとき、テレビが政府の会見を放映していた。20~30キロに屋内退避の指示。職員が食い入るように画面を見つめている。これなのか。

 午後から下津島の50軒を1人で回り、避難を呼びかけた。

 大半の家はカーテンが引かれ、避難していたが、10軒が残っていた。避難を促したが、拒まれた。3軒は「牛がいるので避難できねえ」といった。寝たきりの老人もいた。

 今野は妻(55)と長女(23)を先に逃がし、そのまま津島に残る。

 大勢の避難民でごった返した地区から物音が消えた。夜、雨が雪に変わり、路面は真っ白になった。静かだった。

 昨日はたまたま留守だった家があるかもしれない。16日、もう一度、50軒を回った。いったん避難した5軒が戻ってきていた。

 妻が車いすで、避難所ではトイレに行くのも大変だから帰ってきた――。1軒で、老夫婦がそう答えた。夫は「いいんだよ放射能なんか。もう年だし、ここで生活する」といった。今野は、車いすでも不自由しない別の施設をさがして伝えた。

 「地域が消滅してしまう」

 無人となった地区を車で走りながら、今野は悔しかった。

 今野は元県庁職員で、今後は地元の伝統芸能保存活動に力を入れるつもりだった。しかし、そんな老後の夢は消え去った。

 今野は町から測定器を借り、7月から毎月、地区の一軒一軒の放射線量を測り、その住人の避難先に郵送で知らせている。

 県や町からいわれたわけではない。防護服の男の話を聞いたとき、津島が高い線量だと知っていたら、もっと強く避難を呼びかけたのに……。そんな後悔があるからだ。

 ひと月前と比べ、どの家の軒先も雑草が生い茂っている。3年前に亡くなった父が大事に育てていた庭の植木も枯れた。(前田基行)

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防護服の男(13)自宅裏は荒れはてた

菅野みずえ一家が暮らす桑折町(こおりまち)の仮設住宅は、浪江町からは40キロの距離だ。そこから月に1回、浪江町の自宅に通っている。

 国道114号から津島地区に向かう道に折れると、警察の検問所がある。パトカーからマスク姿の警察官が降りてきて、町が発行する通行証をチェックする。

 8月下旬、地区に入った。家並みは事故前と少しも変わらない。しかし、みずえがつけている線量計は鳴りっぱなしだ。毎時3マイクロシーベルトを超えると鳴るようにしてある。

 「東京電力から仮払金100万円をもらったけれど、そのうちの21万円がこの機械で消えてしまったですよ」

 自宅に着く。玄関前の地面に線量計を近づけると、46マイクロシーベルトにはね上がった。自宅裏の雨どいの下は170マイクロシーベルト。そこに6時間いるだけで、年間許容量の1ミリシーベルトを超えてしまう。

 みずえはもともと大阪の人間だ。2年前、浪江町出身の夫(60)が津島の実家を継ぐことになり、移り住んだ。ハウス農業を始めようと昨年、農業研修を受けた。古い農家を壊し、自宅を新築した。

 大阪で居酒屋の店員をしていた長男の純一(27)も合流し、早く地域に溶け込みたいと、祭りのグループに入って太鼓を習い始めたばかりだ。しかし、もうこの土地には戻って来られないかもしれない。

 みずえは、東電と国にいいたいことがある。

 「だれもいない道を走ってごらんって。そうすれば、自分のしでかしたことの大きさを感じられるからって」

 みずえの自宅裏は草が背丈以上に伸び茂り、まるでジャングルだ。アシナガバチが玄関の戸に巣を作り、アブがぶんぶんと羽音を立てて飛び交う。近所中、ヒマワリの花だらけだ。セシウムを吸い上げるといわれ、みんなが植えたからだ。しかしそのヒマワリが枯れて土に戻ったら、同じことなのだ。

 みずえは大阪の高槻市で暮らしていたとき、阪神大震災を経験した。そのときはボランティアで仮設住宅を回り、お年寄りの健康相談をしていた。

 「まさか、自分が仮設住宅に入ることになるとは夢にも思いませんでした」(前田基行)



またつづく


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ネットに落ちてたわな、「罠」 その1

■防護服の男(1)

 福島県浪江町の津島地区。東京電力福島第一原発から約30キロ北西の山あいにある。

 原発事故から一夜明けた3月12日、原発10キロ圏内の海沿いの地域から、1万人の人たちが津島地区に逃れてきた。小中学校や公民館、寺だけでは足りず、人々は民家にも泊めてもらった。

 菅野(かんの)みずえ(59)の家にも朝から次々と人がやってきて、夜には25人になった。多くが親戚や知人だったが、見知らぬ人もいた。

 築180年の古民家を壊して新築した家だ。門構えが立派で、敷地は広い。20畳の大部屋もある。避難者を受け入れるにはちょうどよかった。門の中は人々の車でいっぱいになった。

 「原発で何が起きたのか知らないが、ここまで来れば大丈夫だろう」。人々はとりあえずほっとした表情だった。

 みずえは2台の圧力鍋で米を7合ずつ炊き、晩飯は握り飯と豚汁だった。着の身着のままの避難者たちは大部屋に集まり、握り飯にかぶりついた。

 夕食の後、人々は自己紹介しあい、共同生活のルールを決めた。

 一、便器が詰まるのを避けるため、トイレットペーパーは横の段ボール箱に捨てる。

 一、炊事や配膳はみんなで手伝う。

 一、お互い遠慮するのはやめよう……。

 人々は菅野家の2部屋に分かれて寝ることになった。みずえは家にあるだけの布団を出した。

 そのころ、外に出たみずえは、家の前に白いワゴン車が止まっていることに気づいた。中には白の防護服を着た男が2人乗っており、みずえに向かって何か叫んだ。しかしよく聞き取れない。

 「何? どうしたの?」

 みずえが尋ねた。

 「なんでこんな所にいるんだ! 頼む、逃げてくれ」

 みずえはびっくりした。

 「逃げろといっても……、ここは避難所ですから」

 車の2人がおりてきた。2人ともガスマスクを着けていた。

 「放射性物質が拡散しているんだ」。真剣な物言いで、切迫した雰囲気だ。

 家の前の道路は国道114号で、避難所に入りきれない人たちの車がびっしりと停車している。2人の男は、車から外に出た人たちにも「早く車の中に戻れ」と叫んでいた。

 2人の男は、そのまま福島市方面に走り去った。役場の支所に行くでもなく、掲示板に警告を張り出すでもなかった。

 政府は10キロ圏外は安全だと言っていた。なのになぜ、あの2人は防護服を着て、ガスマスクまでしていたのだろう。だいたいあの人たちは誰なのか。

 みずえは疑問に思ったが、とにかく急いで家に戻り、避難者たちにそれを伝えた。(前田基行)

2011.10.3朝日新聞朝刊
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■防護服の男(2)
 3月12日夕、菅野みずえは自宅に駆け戻り、防護服の男たちの話を避難者に伝えた。議論が始まった。

 「本当に危険なら町や警察から連絡があるはずだ。様子をみよう」。やっと落ち着いたばかりで、みんな動きたくなかった。

 しかし深夜、事態が急変する。数台のバスが、避難所になっている公民館に入って行った。それに避難者の1人が気付く。バスの運転手は「避難者を移動するのだ」といったという。

 当時、浪江町は、逃げ遅れた20キロ圏内の町民たちを津島地区までバスでピストン輸送していた。しかし、みずえはそんなことは知らず、やはりここは危ないのではないかと思った。みずえは寝ていた人々を起こし、再び議論となった。

 多くは動きたがらなかった。しかし、一人の女性が「みんながいたら、菅野さん家族が逃げられないでしょう」といった。それで決まった。

 「車のガソリンが尽きるところまで避難しよう」

 深夜0時すぎ、若い夫婦2組が出発した。2月に生まれたばかりの乳児や、小さい子どもがいた。

 夫婦は最初、「こんな深夜に山道を逃げるのはいやだ」と渋ったが、「子どもだけでも逃がしなさい」とみずえがいい、握り飯を持たせた。

 翌13日の朝食後、再び話し合った。前夜「逃げない」といっていた若い夫婦連れが「子どものために逃げます」といった。年配の女性が、夫婦に自分の車を貸した。

 「私は1人だから、避難所でバスに乗るわ」

 夕方までには、25人全員が福島市や郡山市、南相馬市などへそれぞれ再避難した。

 みずえは近くの家で避難している人たちにも、防護服の男たちのことを伝えた。1人が笑って答えた。

 「おれは東電で働いていた。おれらのつくった原発がそんなに危ないわけねえべ」

 男は原発事故からではなく、津波から逃れてきたのだ。みずえはこれで気が抜けた。みずえと長男の純一(27)は避難を取りやめた。

 純一は避難所の活性化センターの炊き出し係で、握り飯をつくっていた。

 「おれだけ逃げるわけにいかないよ」。このとき津島地区から10キロほどの地点で、30マイクロシーベルト用測定器の針が振り切れていた。(前田基行)

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防護服の男(3)警察官、なぜあんな格好を

3月13日に菅野家の25人が出て行った後も、津島地区の避難者は大半が残っていた。

 避難指示は12日午前5時44分に10キロ圏内に拡大。1号機が水素爆発した後、午後6時25分に20キロ圏内に広がった。

 しかし官房長官の枝野幸男は12日夜の記者会見で、「放射性物質が大量に漏れ出すものではない。20キロ圏外の地域の皆さんに影響を与えることにはならない」と語った。

 要するに、たいしたことはないが念のため避難してくれ、という趣旨だ。人々は30キロの津島地区は安全だと信じていた。

 東電の社員が12日と13日に浪江町の津島支所を状況報告に訪れた。彼らは防護服ではなかった。「ここは危ない」ともいっていない。菅野みずえが会った男たちの様子とは大きく違っていた。

 役場職員も区長も、みずえの会った防護服の男を見ていない。しかし、みずえは見聞きしたことをしっかりメモに書きとめていた。

 15日早朝、前日の3号機に続いて、2号機で衝撃音がし、4号機が爆発した。政府は初めて20~30キロ圏内の「屋内退避」を要請する。

 津島地区の住民が避難したのはそのころだった。町長の馬場有らが14日の3号機の爆発をテレビで知り、隣の二本松市に15日から自主避難することを決めたのだ。

 福島第一原発の正門では、15日午前9時に毎時1万1930マイクロシーベルトの高い放射線量が観測された。それでも枝野の発言は楽観的だった。

 「放射性物質の濃度は20キロを越える地点では相当程度薄まる。人体への影響が小さいか、あるいはない程度になっている」

 「1号機、2号機、3号機とも今のところ順調に注水が進み、冷却の効果が出ている」

 原子炉が12日のうちにメルトダウンを起こしていたことが国民に知らされるのは、後になってからだ。

 12日朝、浪江町で交通整理などにあたる警官が、防護服を着用した。

 「警官はなぜあんな格好をしているのか」

 住民は不安を抱いた。浪江町議会議長、吉田数博(65)は津島地区の警察駐在所を訪れ、「不安を与えるので防護服は着ないでほしい」と要請した。

 吉田はいう。

 「知らないのはわれわれだけだったんだ」(前田基行)

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防護服の男:4 殺人罪じゃないか

 SPEEDI(スピーディ)というコンピューター・シミュレーションがある。政府が130億円を投じてつくっているシステムだ。放射線量、地形、天候、風向きなどを入力すると、漏れた放射性物質がどこに流れるかをたちまち割り出す。

 3月12日、1号機で水素爆発が起こる2時間前、文部科学省所管の原子力安全技術センターがそのシミュレーションを実施した。

 放射性物質は津島地区の方向に飛散していた。しかし政府はそれを住民に告げなかった。

 SPEEDIの結果は福島県も知っていた。12日夜には、東京の原子力安全技術センターに電話して提供を求め、電子メールで受け取っていた。しかしそれが活用されることはなく、メールはいつの間にか削除され、受け取った記録さえもうやむやになった。

 3月15日に津島地区から避難した住民に、県からSPEEDIの結果が伝えられたのは、2カ月後の5月20日だった。県議会でこの事実が問題となったためだ。

 福島県の担当課長は5月20日、浪江町が役場機能を移していた二本松市の東和支所を釈明に訪れた。

 「これは殺人罪じゃないか」

 町長の馬場有は強く抗議した。

 馬場によると、県の担当課長は涙を流しながら「すみませんでした」といい、SPEEDIの結果を伝えなかったことを謝ったという。

 知らされなかったのはSPEEDIの情報だけではない。

 福島県は、事故翌日の3月12日早朝から、各地域の放射線量を計測している。

 同日午前9時、浪江町酒井地区で毎時15マイクロシーベルト、高瀬地区では14マイクロシーベルト。浪江町の2地点はほかの町と比べて異常に高い数値を示した。1号機水素爆発の6時間以上も前で、近くには大勢の避難民がいた。

 これらの数値は6月3日に経済産業省のHPに掲載された。しかし、HPにびっしり並ぶ情報の数字の中に埋もれ、その重大さは見逃された。

 8月末、浪江町の災害救援本部長、植田和夫にそれらの資料を見せると、植田は仰天した。

 「こんなの初めて見た。なぜ国や県は教えてくれなかったのだろう」

 菅野みずえはいう。

 「私たちは、国から見捨てられたということでしょうか」

 (前田基行)
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防護服の男(5) 私、死んじゃうの?

菅野みずえの家にいた25人の人々は、その後どこに向かったのだろう。

 その一人、谷田(やつだ)みさ子(62)はいま、愛知県春日井市の市営住宅で避難生活を送る。

 みずえの遠い親戚だ。同じ浪江町の小野田地区に家がある。みずえの家からは約20キロ海寄りで、福島第一原発から10キロ以内の距離にある。

 3月11日午後、自宅で地震に襲われた。

 翌12日早朝、隣の双葉町に住む次女一家が「ここは危ないから逃げるのよ」と駆け込んできた。朝9時、家を出た。

 みずえの家がある津島方向に向かう国道114号はすでに大渋滞。国道6号に出て北に進み、南相馬市小高区の長女宅に向かう。ここで1号機の水素爆発を知り、さらに全員で津島を目指した。

 みずえの家に着いたのは夕方6時を回っていた。他の避難者が炊き出しの握り飯を食べ終わったところだった。

 一日中走り回って疲れていたが、避難者の会議には出席した。共同生活ルールのうち、使用済みトイレットペーパーを段ボール箱に捨てるよう提案したのは、みさ子だった。以前メキシコ旅行をしたときの経験を思い出したからだ。

 しかし、ほっとしたのもつかの間、白い防護服の男たちの警告をみずえから聞かされた。

 生後1カ月の赤ちゃんを抱えた次女一家7人と、長女一家4人を、夜中に逃がした。翌13日夕、みさ子も発った。

 行くあてはなかったが、「少しでも遠くに」と郡山市を目指す。

 郡山市では、避難して来る人たちの放射能測定をしていた。みさ子に測定器が向けられると、針が大きく振れた。「私、死んじゃうの?」と測定係に叫んだ。

 その晩は車で寝た。15日朝、地震当時は相馬市にいた夫(54)と携帯電話でようやく連絡が取れた。会津若松市で合流し、新潟県経由で、22日、姉が暮らす春日井市に逃れた。

 国や東京電力から的確な指示が一切ないまま、12日間の逃避行だった。

 「原発は安全」。これまで、そんな説明を何度も聞いていた。それを前提とした生活がすべて崩れた。

 しかし、原発のおかげで住民が恩恵を受けてきたのは事実なのだ。「原発だけ悪いなんて、私たちはいえないのよ」。みさ子はため息をつく。(前田基行)

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防護服の男(6)ハエがたかっていた

谷田(やつだ)みさ子(62)は浪江町で生まれ育った。中学生のころ、東京電力が福島第一原発づくりを始めた。

 高校卒業後、上京して就職したが、1年半で浪江町に戻った。そのあとは東電一色の生活だった。

 結婚し、3人の子を育てながら焼き鳥屋をやった。客は原発で働く作業員たちだった。

 その後は東電の社員寮に勤める。

 昨年の夏まで10年間働いた。食事をつくり、若い社員らに「やつだっち」と呼ばれて慕われた。女子寮には、女子サッカーのなでしこジャパンで活躍した鮫島彩選手らがいた。「みんないい子でかわいかったです」

 子供たちの手が離れてからは、東電の管理職の寮に住み込んだ。

 思い出すのは選挙の時の東電の力の入れようだ。

 町長選挙や県議会議員選挙があると、寮の食堂が東電幹部らの待機場所となった。支援候補が当選すると、幹部はそろってお祝いに駆けつけた。「電力会社は政治とがっちりつながっているんだな」と感心した。

 これまでの人生の半分以上を東電とかかわってきた。にもかかわらず、今度の事故では東電から何の情報もなかった。

 愛知県春日井市に避難してからはいっそう情報が入らなくなった。福島県の地元紙を郵送してもらい、隅から隅まで目を通す。

 これから生活はどうなるのか。補償はどうなるのか。不安だらけだ。

 6月、浪江町の家に一時帰宅した。冷凍庫は地震でひっくり返ったままで、腐った食材にハエがたかっていた。

 8月末、自分の車を引き取りに再び福島に戻った。夫が車を運転し、春日井市から高速道路で8時間かかった。広野町の体育館で防護服に着替え、用意されたバスに乗り込んだ。

 バスが止まると、首輪をつけた2匹の犬が足元に寄ってきた。途中、道ばたで猫が2匹死んでいるのを見た。

 「一歩間違えたら、私たちがああなっていたのかな」

 事故後、長女は郡山に、次女は新潟に、家族は散り散りになっている。

 9月、福島県の仮設住宅に入居を申し込んだ。

 「福島は何十年も暮らした土地ですから。戻りたい」。涙がこぼれた。(前田基行)


つづく

テーマ : 「原発」は本当に必要なのか
ジャンル : 政治・経済

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『推進派はいつも自然も人工も放射線は同じだと言う、【成る程その通りだ。 しかし、問題は放射線ではなく、人工放射性核種は濃縮する事にあったのだ】 』
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