ヨウ素、セシウム、プルトニウム、もう日本は終わった。

降下量
http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/11/1910_1125_2.pdf

関東はひどいわ、ヨウ素の直撃もあったのだな。福島県と宮城県までデータがないのはなぜ?あまりのひどさか。


プルトニウム3
http://www.pref.fukushima.jp/j/dojou111129.pdf#search=%27%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0%27


福島県 における土壌の放射線モニタリング (プルトニウム) 調査結果(速報 )


平成23年11月29日 原子力災害現地対策本部(放射線班) 福島県災害対策本部 (原子力班 )

3 考察
調査地点 (48地点)について は、全て原子力事故発生前の国内の 調査結果の範囲内 で あったこと、プルトニウム238とプルトニウム239+240の比率が事故発生前の全国平均(0.0261)とほぼ同程度の比率であったことから、事故由来のものではないと考えられる。
なお、参考調査地点( 7地点 )のうち、1地点( 大熊町夫沢)についてはプルトニウム238とプルトニウム239+240の比率が0.214と全国平均(0.0261)より一桁高い比率となっていることから、今回の事故の影響の可能性が考えられる。



福島の現地の原子力関係者が測定したら、事故のプルトニウムではない、昔の核実験由来のものです、原発に近い大熊町だけ事故由来のプルトニウムです、ということか。

なに!!!

ここまで福島を安全に見せたいとは、どこまでのアホなのか、涙が出て来る、泣く、なさけない、死んでほしい。



以前文科省が調べたやつ。


文部科学省による、プルトニウム、ストロンチウムの 核種分析の結果について 平成23年9月30日
転載

全国平均で0.026 程度であるのに対して、本調査においてプルトニウム238、239+240 双方が検出された5 箇所の調査箇所は0.33~2.2 程度であり、事故発生前より比率が大きいことから、これらの5 箇所については、今回の事故に伴い、新たに沈着したものと考えられる。

また、プルトニウム239+240 は検出されていないものの、プルトニウム238 が検出された1 箇所の調査箇所についも、プルトニウム239+240 の検出下限値(約0.5 Bq/㎡)に対して、プルトニウム238 の沈着量が大きいことから、今回の事故に伴い、新たに沈着したものと考えられる。



福島県が調べるとインチキ、文科省はあらゆる大学や研究機関が調べているのでごまかしが効かない。

もう、福島県はおわったな、早川が言うように、廃県にした方がいいようだ、測定さえ誤魔化すのだから除染もしなくていい。

福島県の表のプルトニウムの比率をようく見たら、文科省の言うように、0.026よりもほとんどが高いじゃないか、素人をバカにしやがって、どこまでひどいのか、福島県よ。

福島県から避難したい人は避難して下さい、除染しないでガレキで封印します、悪魔の佐藤山下と共に。


ばっきゃやろう



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テーマ : 「原発」は本当に必要なのか
ジャンル : 政治・経済

良く見てるなみんな、「吉田昌郎所長の首の付け根が腫れ上がっている 」

おれのようなボケには気がつかん

吉田所長2

吉田所長
http://www.youtube.com/watch?v=wgqRB6QrwCQ&feature=player_embedded



福島原発・吉田所長「病名非公表」で波紋 ネットに「早期回復」祈る声も多数


おかしいんじゃないか!? 吉田所長をヒーローに仕立てる東電 大マスコミ・・・これは巧妙な目くらましだ


世界中でもっとも真実情報を握っている人間、逃亡前社長清水とは違う所を証明する義務がある。

事故調査委員会にすべてを明らかにして入院なのか?

秘密を持ったまま逃げるのか?

病院から内部告発するつもりか?

真価が問われている。


テーマ : 「原発」は本当に必要なのか
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ネットに落ちてたわな、「罠」 その7

■観測中止令:1 突然、本庁から電話

3月31日、気象庁気象研究所の研究者、青山道夫(58)は日本から届いたメールに驚いた。モナコで国際原子力機関(IAEA)の会議に出ていたさなかだった。

「放射能観測をやめろって? 半世紀以上続いてきた観測なんだぞ」

気象研は1954年から放射能の研究をしている。きっかけはビキニ環礁で行われた米国の水爆実験だった。57年からは大気と海洋の環境放射能の観測を始め、一度も途切れることなく続けてきた。いまや世界で最も長い記録となり、各国からも高く評価されている。

それをなぜやめなければいけないのか。よりによってこの時期に。

メールの主は茨城県つくば市にある気象研の企画室調査官、井上卓(47)。31日午後6時、本庁の企画課から突然、電話があったという。

「明日から放射能観測の予算は使えなくなる。対応をよろしく、と」

放射能が観測史上最高の値を示している時に、なぜやめるのか。聞き返したが、本庁は「その方向で検討してもらうしかない」という。

井上は途方に暮れた。

あと6時間で今年度も終わる。その最後の日の退庁時刻も過ぎたころになって、明日からの予算を凍結するなんて聞いたことがない。

しかし、本庁の指示とあれば考えている時間はない。井上は分析作業員を派遣していた業者に電話した。

「突然で申し訳ありません。派遣職員の方に明日からは出勤しないよう、連絡いただけないでしょうか」

放射性物質の分析という特殊な技術を持つ人材と補助業務をする専門の職員を「放射能調査研究費」で雇っていた。その予算がなくなれば、明日からの給料は払えない。

「所内関係者を集めろ」
「会計課は送別会のはずだぞ」
「電話して呼び戻せ」

企画室はてんやわんやとなった。

気象研での放射能研究の中核は、地球化学研究部の青山と環境・応用気象研究部の五十嵐康人(53)だ。
家に帰っていた五十嵐が呼び出された。企画室の職員が説明した。

「福島原発事故に対応するため、関連の予算を整理すると文部科学省から本庁に通達があったそうです。緊急に放射能を測らなければならなくなったので、そっちに予算を回したいと……」(中山由美)

第3シリーズ「観測中止令」はお役所の論理について考えます。十数回の予定です。敬称は略します。

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■観測中止令:2 無視して採取続けた

気象庁気象研究所の研究者、青山道夫(58)は4月3日、モナコの国際会議から帰国するなり、企画室に飛び込んだ。

「放射能観測の予算凍結ってどういうことですか。本庁にもう一度確かめてください」

調査官の井上卓(47)は答えた。「文部科学省が予算を配分してくれないのだそうです」

青山は文科省に連絡を入れた。

「今もっとも放射能観測が必要とされているときに、測るのをやめろとはどういうことですか」

担当は文科省原子力安全課の防災環境対策室である。その調整第一係長の山口茜から返事があった。

「気象庁から放射能調査研究費は必要ないとの回答をいただいています」

気象庁がそういった? 青山は納得できなかった。

茨城県つくば市の気象研の敷地に、2メートル四方と1メートル四方の計三つの正方形の器が空を向いている。そこに雨をためることで大気中に漂う微粒子を集めて、放射能を測る。

別な装置では、大気中の微粒子をフィルターでつかまえて測る。さらに太平洋を航行する船に海水をくんで来てもらって分析する。こうした観測が1957年以来54年間にわたり、途切れることなく続いてきた。

地球環境の変化は、長年にわたって観測し続けることでとらえることができる。昭和基地で空を見続け、南極のオゾンホールを世界で初めて発見したのは、気象研の研究者だ。欠測があってはならないと、懸命に観測をつなげてきた。

それを、福島原発事故から1カ月もたっていないこの時期に、なぜやめろというのだろう。

青山の同僚、五十嵐康人(53)は「気象庁がいったん決めたのなら、もう元には戻らないだろう」と考えた。だが青山も五十嵐も研究者として、観測を中断することなどできなかった。予算凍結を無視して観測を続けることにした。

「予算がないなら、金を使わなければいい。分析は後回しにしても、サンプルだけは取り続けよう」

海水採取を委託した日本郵船の船は、予算凍結を連絡する前にすでに出航していた。

大気中の微粒子をとらえるフィルターは、休日や夜中にも出てきて交換した。フィルターなどの消耗品が足りなくなると、別の大学や研究機関の研究者がこっそり分けてくれた。(中山由美)

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■観測中止令:3 放射能「高過ぎる!」

東日本大震災が起きた3月11日、青山道夫(58)は茨城県つくば市の気象庁気象研究所にいた。棚の本がどさどさ落ちて床に散らばった。

揺れがおさまると、ヘルメットをかぶり、サーベイメーター(放射線測定器)をつかんで研究室を飛び出した。所内には放射性物質だの薬品だの危険な物がある。

「異臭がするぞ」
「ガラス割れてないか」

所内を走り回った。玄関のタイルがはがれ落ち、壁にひびが入っていた。安全点検が終わり、一息ついたのは夕刻だった。

テレビが福島原発のニュースを伝えている。「原子炉が冷却できない状態になっており、放射性物質が漏れる可能性があります」

翌12日午後3時30分ごろ、福島原発で爆発が起きた。破片が飛び散り、白煙がもくもくあがり、広がる様子がテレビ画面に映し出された。

約170キロ離れたつくば市にも、間違いなく放射性物質が飛んでくるはずだ。観測態勢を強化した。

大気中に漂う微粒子を集めるフィルターの交換は、これまで週に1回だった。12日夜から12時間ごと、その後6時間ごとに増やした。サーベイメーターを持って何度も屋上に上がった。茨城県のモニタリングポストの数値を頻繁にチェックした。

風向と風速を読んだ。放出された放射性物質が届くとすれば、14日か15日のはずだ。

15日朝、屋上の放射線量を調べた。午前8時45分、毎時2.2マイクロシーベルト。

集めた大気中の微粒子の放射能を測ってみた。同僚の五十嵐康人(53)が分析装置にかけ、うなった。

「測れない! 高過ぎる」

赤、オレンジ、緑……、パソコンの画面いっぱい、放射線のエネルギーを示す線が無数に飛び出している。いったいどれがどの放射性核種なのか、よくわからない。故障かとさえ思った。これまで経験したことのない高レベルの放射能だった。

通常の測り方では無理だ。雨水は水で薄めてから分析し、換算した。フィルターで集めた微粒子は、放射線を測る検出器から離すため、10センチほどの透明な容器を逆さに置き、その上に載せてから測った。

ヨウ素132は1立方メートル当たり113ベクレル。セシウム137は14ベクレル……。異常な数値だ。

観測中止令が出たのは、そんな観測が続いていたころのことだった。(中山由美)

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■観測中止令:4 せっぱつまった事情

気象庁気象研究所が今年度受け取るはずの「放射能調査研究費」は約4100万円だった。

国の放射能調査研究費の総額は約10億4300万円だった。それを文部科学省が取りまとめ、関係各省庁に振り分けた。

輸入食品の放射能を測る厚生労働省。米国の原子力潜水艦の寄港時のモニタリングをする文科省と海上保安庁と地方自治体。離島の空間線量を測る環境省などだ。うち気象庁分は4%、分析にかかわる人件費が多くを占める。

気象庁に予算見直しの電話を入れたのは、文科省原子力安全課の防災環境対策室の職員だった。
担当の山口茜係長は説明する。

「予算を緊急の放射線モニタリングに回したい、と財務省がいってきたのです」

空間線量や土壌、食品、水……緊急に測らなければならないものが山ほどある。福島原発近隣だけではすまない。動員する人員も相当数になる。かなりの予算確保が必要だ。そのため、まずは放射能関係の予算から回せないか、と財務省も文科省も考えたのだと。

文科省は関係するすべての省庁に見直しを打診した。しかし総額の半分、約5億円を占める米原潜のモニタリングは削れない。日米安保条約に基づいているためだ。

気象庁に尋ねた。「気象研究所の放射能観測はモニタリングでしょうか、それとも研究でしょうか」

放射能を測ったデータを公表してもらえるなら、そのまま「緊急モニタリング」とすることができる。

しかし気象庁企画課調査官の平野礼朗(よしあき)(41)は、研究なのでデータはすぐには公表できないと答えた。
「今年度の放射能調査研究費は必要ありません」

すんなり受け入れてもらえたので、山口はほっとした。

「こちらから観測中止を求めたのではありません。予算の見直しをお願いしたら、気象庁から研究であってモニタリングではないと、予算の返還に応じていただいたのです」

電話を受けた平野の説明は、やや異なる。「3月31日夕のぎりぎりになって文科省が連絡してくるなんて、よほどせっぱつまった事情があるんだと思いました」

平野は、文科省からの電話を放射能観測の中止令と受け取った。

「それに、放射能観測は気象庁本来の業務ではないですから。優先度は低いのです」(中山由美)

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■観測中止令:5 まさかそれが日本で

放射能観測を自力で続けていた気象庁気象研究所の青山道夫(58)は、放射能による環境影響の研究で国際的に知られている。

今夏、広島市が原爆の放射性物質の飛散状況を解明する論文集を作成した。「黒い雨」など放射性物質がどんな影響を及ぼしたかを解析し、国内外に知らせる目的でつくられた。青山はそれをまとめた専門家の一人だった。

気象研に勤務したのは1984年春だった。研究所の庭を歩いて、四角い器が空を向いているのを見て、思わずにやりとした。

「私が気象大学校時代につくったのと、そっくりだったのです」

青山は奈良県の高校を出て、千葉県柏市にある気象大学校に進んだ。理系の難関校だ。「給料がもらえるんですよ。4年で6年分の勉強ができると聞いて、いいなと思った」

1学年15人という少人数なのも気に入った。学生ながら、本格的な実験や研究もできる環境だった。

天気や気象のことより、地球のことに興味を持った。水銀やカドミウムはどう運ばれ、循環するのか。大気中に漂う微粒子に付く物質を調べてみようと、大きな器をつくって校内の路上に置き、雨を集めた。自分で考えた装置だが、それが気象研のものとそっくりだったのである。

77年春に卒業。気象庁の長崎海洋気象台に4年、函館海洋気象台に3年勤める。年間150日間は船に乗り、九州から沖縄、北海道周辺の海水を集め、分析した。

84年春に気象研に呼ばれ、放射能観測を託される。主に青山は海、後に加わる五十嵐康人(53)が大気を監視する態勢ができあがった。

60年代は米ソの大気圏核実験の影響で高い観測値が続いていた。しかし冷戦構造がゆるんで核実験が減り、大気圏核実験は80年の中国が最後となる。放射能は85年には過去最低となった。1メートル四方の口のある器で雨を集めていたが、測るのも難しくなってきたため、2メートル四方の大きな器までつくったほどだ。

86年、チェルノブイリ原発事故が起き、再び跳ね上がる。観測の重要性が再注目されることとなった。

最近になると、チェルノブイリ原発事故の影響も見えにくくなってきた。しかし、またどこかで原発事故が起きないとも限らない。そう思って続けてきた観測だ。

「まさかそれが日本で起きるとは思いませんでした」

(中山由美)

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■観測中止令:6 ネイチャーに出そう

英誌「ネイチャー」は、世界的にもっとも権威ある科学雑誌のひとつだ。そこに論文が載ることは、世界が知るということである。

気象庁気象研究所の青山道夫(58)は4月、ネイチャー誌への論文掲載が決まっていた。テーマは「福島原発から出た放射性物質の海洋環境への影響」。

青山に論文作成を呼びかけたのは、研究者仲間のケン・ベッセラーだった。米国のウッズホール海洋研究所の研究者だ。チェルノブイリ事故直後からの付き合いで、青山も1996年に3カ月、ベッセラーの研究所で研究したことがある。

青山は3月末、モナコの国際原子力機関(IAEA)の会議に出席した。そこにベッセラーもいた。特別セッションで福島原発事故に関する青山の報告を聞いて、こういった。

「ネイチャー誌に論文を載せよう。福島の事故は世界が注目している。早い方がいい」

ベッセラーは、青山がつくった海水中の人工放射能のデータベースを高く評価していた。「日本からの発信は少なすぎる。今こそ、君の長年の蓄積を生かすときだ」

青山は、研究者仲間の深澤理郎(まさお)(61)にも声をかけた。深澤は独立行政法人である海洋研究開発機構の研究者で、海水の動きについての権威だ。

論文は3人の連名で出すことになった。4月18日、英文の素案がまとまった。

「海洋中に出たセシウム137は事故から3週間たってもまだ減少していない」

「海水1立方メートルあたり、福島原発の排水口付近で100万~5千万ベクレル、沿岸で5万ベクレル、30キロ沖合で千~5万ベクレル」

「過去の大気圏核実験がもたらしたレベルより数けた高く、86年のチェルノブイリ原発事故で黒海やバルト海が汚染されたレベルより少なくとも1けた高い」――。

比較のグラフも付けた。チェルノブイリ事故による黒海などの放射能は高い所で数千ベクレルだが、福島原発排水口付近はその約1万倍。30キロ沖では薄まり、黒海と近い値もある。

ネイチャー誌は大きな関心を寄せ、ただちに掲載を決めた。

青山は上司の地球化学研究部長、緑川貴(たかし)(58)に論文を見せた。緑川は「問題ないんじゃないか」といって、投稿計画申請に判を押した。

しかし、問題は大ありだった。 (中山由美)

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■観測中止令:7 削除してくれないか

気象庁気象研究所の青山道夫(58)は、ネイチャー誌に投稿を予定していた論文の素案を地球化学研究部長の緑川貴(たかし)(58)に見せた翌4月19日、企画室に呼ばれた。

企画室長の韮澤浩(52)が「内容について、いくつか聞かせてください」といった。

青山の上司である専門家の緑川が承認した論文について、企画室が説明を求めることなど、これまでなかった。不審に思ったが、論文の内容を解説した。

25日、今度は所長室に呼ばれた。韮澤、緑川に伴われ、所長の加納裕二(60)と対した。

「チェルノブイリ事故のデータは、川で運ばれた何百キロも先の海の話だ。福島沖の海と比べるのは、科学的におかしいと思う」と加納が切り出した。

青山は「チェルノブイリ原発事故では放射性物質が川を通って海に出たわけです。離れていても川ではそれほど薄まりません」と説明した。

福島の場合、原発の排水口付近の放射能は、チェルノブイリ事故による黒海の汚染の1万倍ほどにもなってしまう。だが、30キロ沖に離れると薄まり、同じレベルに下がっている値も示していた。

2人が説明した、当時のやりとりを再現する。

加納「専門家は判断できるかもしれない。しかしマスコミは、『福島の海はチェルノブイリ事故の1万倍の汚染』と書きかねないですよ」

青山「東京電力や文部科学省が公表したデータをもとにしているので、数値に間違いはありません。海の汚染がひどいのは事実です。だいいち『1万倍』という具体的な数字はテキストに書いてません」

加納「しかしグラフを見れば、そう読める」

青山「それについては正しく理解してもらえるよう、報道用に日本語の解説もつくって配ります」

加納「チェルノブイリ事故との比較を削れないものか」

青山「削れば、残るのは核実験の影響による太平洋の汚染との比較です。『100万倍ひどい』なんて書かれることになりますよ」

しかし加納は譲らない。

「書き直さないなら、『気象庁気象研究所・青山道夫』の名前でこの論文を出すのは許可できない」

削除を求められた部分は、論文の共同筆者であるケン・ベッセラーの担当した所だ。青山には削ることなどできなかった。(中山由美)

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■観測中止令:8 センセーショナルだ

4月25日、青山道夫(58)らのネイチャー誌論文は、掲載直前に気象庁気象研究所の所長加納裕二(60)の許可が下りない事態になった。

その夕、青山は共同筆者のケン・ベッセラーにメールを送った。「所長の承認が得られない。私の名前をはずして論文を出してくれ」

しかしネイチャー誌は厳しかった。「所属機関のトップが反対する論文を掲載することはできない」

論文は掲載とりやめとなった。共同筆者のベッセラーと深澤理郎(まさお=61)に何とわびていいか、青山には言葉がなかった。

青山が属しているのは気象研の地球化学研究部である。その部長の緑川貴(たかし=58)が認めれば論文は問題なく公表できるはずだ。所長から不許可になった例はこれまでなかった。

地球化学研究部では、互いの研究を議論し合う情報交換会を毎週開いている。

4月22日には、青山の論文の内容を紹介して議論した。問題があるとする意見は一人もなかった。研究者たちの意見は緑川と一致して「公表すべきだ」だったという。

一方、所長の加納は、本庁の気象庁に論文を見せ、意見を求めていた。気象庁企画課長の関田康雄(51)はこう答えた。

「チェルノブイリ事故時の海のデータと比べるのはサイエンスとしてどうでしょう。誤解を招くのではないでしょうか」
関田は取材に対し、そう判断した理由を話した。

「ふだんならいいのですが、こんな原発事故が起きた折、センセーショナルな数字が表に出て混乱を引き起こしたらまずい、と」

研究者の論文発表の是非が、気象庁まで上がっている。異例だった。

所長の加納は本庁勤めが長く、「研究畑」ではない。そういう管理職に、論文の科学的判断ができるのか。青山は納得できなかった。加納にメールで質問状を送った。所長室でのやり取りを文書にし、確認しておきたかった。

趣旨は大きく2点だ。

「マスコミが1万倍と書きかねないとの理由で、論文の部分削除を求めることは誤りです」
「専門家でない人が所長になる場合があり、そうした所長が承認しないと論文が発表できないのは、研究所として制度欠陥と思います」

質問状は関係各部長にも同送した。しかし20日間が過ぎても所長から回答はなかった。
(中山由美)

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■観測中止令:9 所長が謝ってほしい

青山道夫(58)は4月27日、ネイチャー誌への論文投稿を止めた気象庁気象研究所の所長、加納裕二(60)に対し、質問状をメールで送った。しかし回答は来なかった。

5月17日、所長に催促のメールを送ったが、やはり返事はない。

「このままでは研究の発表もできなくなる」。青山は不満を強めた。

見かねた地球化学研究部長の緑川貴(たかし)(58)が企画室に足を運んだ。緑川は室長の韮澤浩(52)から聞いた「所長の考え」を青山に伝えた。

「チェルノブイリ原発事故との比較がフェアではないから承認できない、と。論文の中身がまったくだめだということではないらしい」

科学的な判断ではないのか。「マスコミが騒いで、パニックになることを心配しただけなんですね」

青山はますます納得できなかった。再び所長にメールを送った。

「共同筆者のケン・ベッセラーと深澤理郎(まさお)に謝罪をしてほしい」

ベッセラーは米ウッズホール海洋研究所の研究者で、ネイチャー誌への論文掲載を青山に勧めた友人だ。

深澤は海水の移動についての権威だ。「海洋汚染は、福島原発によるものの方がチェルノブイリ原発事故の時よりはるかに高いのは事実。審査が厳しいネイチャーも掲載の方向で進めていた。沖にいくと薄まると書いてあった。風評をあおらず、むしろ抑える内容だったと思う」

深澤の所属する海洋研究開発機構は、論文内容に異論を差し挟まなかった。深澤は「科学的に正しいかどうかは研究者の判断する領域。管理職の態度として『国の研究所の研究者という立場上、差しさわりがある』という理由ならまだ気持ちはわかります。納得はできませんが」と話す。

気象庁では、企画課長の関田康雄(51)ら放射能の専門家ではない数人が議論。気になる点があるとして、「青山に書き直させた方がよいのでは」と気象研究所長の加納に意見を伝えていた。

共同筆者への謝罪の要求に対し、加納からの返事はなかった。代わりに韮澤からメールが来た。

「共著者に対する説明は、青山さんからしてください」

そしてこう付け加えられていた。「まだ事故が収束の方向にあるのかどうかわからず、報道もさまざまな専門家・機関による発表やコメントを取り上げている現状では、(気象庁)企画課、所長から了解を得ることは難しいと思います」(中山由美)

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観測中止令(10)自分はしゃべれない

気象庁気象研究所は、放射能に関して外に対してものが話せないような空気になった。

福島原発事故後、青山道夫(58)や、同僚の五十嵐康人(やすひと=53)のところには、取材や講演依頼が相次いでいた。主に青山は海、五十嵐は大気。環境中の放射能を研究する2人は、国内外に知られている。

3月23日朝、五十嵐のところに新聞記者から「福島原発から出た放射性物質の広がりを聞きたい」と取材依頼があった。

企画室の研究評価官が記録をとるために同席したが、そのほかに企画室長と五十嵐の上司の環境・応用気象研究部長までが顔をそろえた。

「拡散についてはお話しできますが、リスク評価はうちの仕事ではないのでコメントできません。うちの名前や私の名前が出る場合は、公を代表した意見ととられますので」。歯切れの悪い受け答えとなった。

青山に対しても、同じような対応が続いていた。

日本アイソトープ協会は、放射性同位元素の利用や安全に関する研究などに取り組む社団法人だ。7月初め、東京で「アイソトープ・放射線研究発表会」を開くことにした。

発表会では緊急公開セッションが企画された。放出された放射能の環境影響や科学者の役割をテーマにした。参加予定の青山に発表をしてもらおうと、協会は気象研に講師派遣を依頼した。だが企画室は「手続きが間に合わない」と断った。

代わりに別の機関の研究者が講師となり、青山の海水汚染の研究データを引用しながら発表した。青山は、スクリーンに映し出される自分の研究データを演壇上の座長席から眺めていた。「変な気分でしたよ。自分はしゃべれないのですから」

6月初めに約2週間、日米共同で福島沖の放射性物質を調べることになった。青山も参加予定だったが、辞退を命じられる。企画室長の韮澤浩(52)は「国の緊急モニタリングを要請されるかもしれない。長期に空けられると困るからだった」と説明する。気象庁は「参加する予定はなく、事実と異なる」と提案書からの名前の削除まで求めていた。

五十嵐はいう。「気象研は国の研究機関です。私たちは公務員。であるなら、お客さんは国民です。国民が知りたいことに、私たちは応えていくべきだと思うんですが」

そんな気象研の空気が一気に変わるできごとが起きた。6月28日のことだった。(中山由美)

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観測中止令(11)予算どうなってるの!

6月28日、つくば市の気象庁気象研究所に、民主党参院議員の森ゆうこ(55)が突然やってきた。

森の事務所は「この件の取材は応じられない」というが、森の当日のブログにはこう記されている。

「本日の気象研究所視察は、貴重な研究結果や調査活動などが今回の原発事故に全くいかされていないという情報を受けて、昨日気象庁から報告を聞いたが要領を得ないため急きょ実施……」

さらに「α線検出器。予算も無く、研究者が退任したため活用できず」など放射能の観測現場を視察したことが記され、青山道夫(58)と五十嵐康人(53)に会って説明を聞いた様子が写真入りで載っている。

青山、五十嵐との面会は事前の予約なしだった。森はブログで2人のことを研究の「第一人者」で「権威」であると評している。

青山によると、森は携帯電話を取り出すと、その場で電話を始めた。

「相手は文部科学省のようでした。『予算は一体どうなってるの!』なんて感じで話してました」

3月31日に止められた今年度の放射能調査研究費が復活したのは、それから間もなくのことだった。

予算復活について気象庁企画課は、文科省から「緊急モニタリングの予算は間に合ったので、必要な研究費があったら申請してください」と連絡を受けたと説明する。

今年度に4100万円を予定していた気象研の放射能調査研究費は、3900万円に修正されて8月からついた。
大気中の微粒子や海水から放射能を測る研究は続けられることになった。1957年以来続いてきた世界最長の観測は、途切れずにすんだ。

ただ、研究の課題名と概要が若干変更され、当初あった「予測モデルの構築」という項目が削られた。青山は「放射能がどう広がるか、予測して勝手に外に流されては困るということでしょうか」と苦笑いする。

五十嵐は予算復活を、手放しでは喜べなかった。派遣の分析技術者らを呼び戻すことができなかったからだ。3月31日に予算が削られたとき、雇用を打ち切らざるを得なかった。彼らは他の機関からの誘いを受け、すでにそれぞれ新しい仕事場で働いている。精度の高い技術を持つ人々を失ったことは痛かった。

森はその後、文部科学省副大臣になった。だが6月当時は関係ない。彼女は気象研の情報を誰から聞いたのだろうか。(中山由美)

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観測中止令(12)誰が気象研を教えた

6月28日、参議院議員の森ゆうこ(55)が気象研究所を訪れた翌月、放射能調査研究費の復活が決まった。
森の事務所は「この件について何もいえる立場にはない」と口を閉ざす。誰から話を聞いたのだろう。

気象研の研究者はいろいろ大変だという話は、すでに放射能や大気、海洋の研究者の間でうわさになっていた。たどっていくと一人の人物が浮かんだ。木村真三(44)。福島原発事故後、勤務先の研究所に辞表を出して現場に飛び込んだ研究者だ。

木村は「森さんの件? ああ、それは私です」といった。

森は当時、放射能から子どもたちをどうしたら守れるか、情報を求めていた。木村が出ていたNHKのETV特集をみて連絡をとってきた。

木村は「気象研なら放射能の観測データを持っている」と教えた。

気象研は放射能観測でトップレベルと思っている。実感したのは、1999年に起きた茨城県東海村の核燃料加工施設の臨界事故のときだ。当時、木村は放射線医学総合研究所にいた。専門家が調査団をつくり、気象研からは五十嵐康人(やすひと)(53)や青山道夫(58)らが参加し、中核を担った。仕事ぶりは際立っていた。

ただ、森には「気象研はひと筋縄ではいかないですよ」と付け加えた。福島原発事故の直後、自身も放射能情報の収集の協力を求めたのだが、にべもなく断られたからだ。

森はまず、気象庁の本省である国土交通省に問い合わせた。

「気象研のデータは出ているかと、うちにまわってきました」と気象庁企画課の平野礼朗(よしあき)(41)はいう。森の事務所に出向いて説明したが、「答えになっていない」といわれてしまう。「それで直接、気象研へ行かれたのでしょう」

その訪問から間もなく、凍結されていた放射能調査研究費が戻ることになった。気象庁企画課長の関田康雄(51)は「文科省から、緊急モニタリングの方は補正予算から出ることになって、間に合ったと」。

7月8日、気象研のホームページに「東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う放射性物質の移流拡散について」という情報が公開された。詳しいデータがあり、放射性物質が福島原発から流され、広がっていく様子を動画で見ることができる。

その3日後、森のブログにも「気象研究所が発表した」とリンク先のアドレスが紹介されている。
まるで、一気に氷がとけたようだった。(中山由美)

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観測中止令(13)どこの機関から何が

11月8日、気象庁気象研究所の青山道夫(58)と五十嵐康人(53)らに文部科学省から調査が入った。

3月31日に予算が止められたにもかかわらず、彼らは福島原発から出た放射性物質をとらえるため、観測を続けた。「1957年以来の観測を途切れさせてはならない。予算なしでもできる限りやろう」。そんな思いで苦心する2人を知り、外部から応援してくれた人たちがいた。

そのことを8日付のこの欄で紹介した。「消耗品が足りなくなると、別の大学や研究機関の研究者がこっそり分けてくれた」と。録音を聞き直しても、気象研はそう説明している。読者からの反応は、多くが「継続できてよかった」だった。それには消耗品を分けた研究者への賛辞も含まれていた。ところが――。

文科省の反応は違った。

原子力安全課の防災環境対策室係長、山口茜は同日、気象庁を通してこう気象研に問い合わせた。「どこの機関から何が提供されたのか」

取材した私にまで山口が尋ねてきたので、逆に聞いてみた。

――なぜそれを確かめる必要があるのですか?

「もし消耗品が余っていて、分けてあげたのなら、その予算は返していただかないといけませんから」
――誰かにいわれて調べているのですか? 財務省から?

「いいえ。私がそういうことがあればいけないと思って。財務にも聞かれかねないですから」

――程度の問題もあるんじゃないですか? 何十万、何百万円と余らせるのはよくないですが、10円とか100円単位でも予算を返せと?

「ルールとして返してもらわなくてはいけません。財務省にも厳しくいわれますから」

半世紀以上も続いてきた観測が途絶えることには興味を示さず、継続のために研究者が融通し合った消耗品の行方には過敏に反応する。気にかかるのは財務省の意向らしい。当の財務省に聞いた。

答えてくれたのは同省文部科学第四係の主査、佐久間寛道。返答はあっさりしていた。「そんなことうちは聞きませんよ。予算執行はそれぞれが責任もってやることでしょ」

山口に対し、気象研は「記事は事実ではない」と回答した。「他機関から観測データがほしいと依頼があり、代わりに消耗品をいただいた。こっそりではない」という主張だ。もちろん取材時に気象研からそんな説明はなかった。 (中山由美)

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観測中止令(14)「文科省」45分で16回

 11月17日午後2時、東京・大手町にある気象庁1階の会見室で、気象庁長官の定例会見が開かれた。
 長官の羽鳥(はとり)光彦(57)が冒頭数分、災害情報に関する報告をしたが、その後の45分間の質疑はすべて、今回の連載で取り上げたことに関するものだった。

 ――放射能調査研究費が止められたことで、福島原発から流れる放射性物質をとらえていた観測が止められる事態になりかねなかった。これをどう考えるか。

 羽鳥「文部科学省から要請があった。当時としての判断は正しかったと思う」

 ――世界が注目する放射能観測の重要性についてはどう考えるか。

 羽鳥「政府全体の計画の中で優先順位もあろうかと思う。文部科学省にお聞きいただけたらと思う」

 ――気象研究所では7月から、放射性物質が広がる様子をホームページに載せている。なぜそれまで公開できなかったか。

 羽鳥「原子力防災計画においてSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)が位置づけられ、文部科学省が全体の対応を行っている。文科省がそれを利用して最善の対応を行っていくのが妥当と思う。ホームページの公開は、直前まで私はいっさい知らなかった」

 一連の経緯について長官としての考えはほとんど示されず、「文部科学省の指示にしたがったまで」という趣旨の発言が繰り返された。会見中「文部科学省」という言葉は16回使われた。

 気象研の研究者、青山道夫(58)らのネイチャー論文の掲載を、所長が認めなかった件でも質問が出た。しかし羽鳥は「所長を信頼しております」と繰り返すだけだった。

 気象庁企画課も、福島原発事故とチェルノブイリ事故との比較は問題があるとの意見を付けた。それについて「客観的に科学的な評価や助言はできる」と妥当性を強調した。

 長官自身の考えを問われても、答えは「詳細は聞いておりません」「事実関係は掌握しておりません」だった。
 原発事故後に福島に入り、取材を続けていた記者が質問した。

 ――早く情報を伝えてくれれば被曝(ひばく)量が少なくてすんだのに、という人が福島には多くいる。そういう人々への言葉はないか。

 羽鳥「気象庁の立場としてのメッセージは難しいと思います」。その一言だけだった。(中山由美)

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観測中止令(15)責任は負いたくない

 ネイチャー誌への掲載が差し止められた気象庁気象研究所の青山道夫(58)らの論文は先月、別の科学誌「エンバイロメンタル・サイエンス&テクノロジー」に載った。

 福島原発事故による海の放射能影響という内容は前と同じだが、気象研所長の加納裕二(60)は今回はいっさい口をはさまなかった。「分量が増えて丁寧に解説された。誤解を招く心配はもうない」という。

 かつて気象庁は各地の気象台で放射能を測っていたが、地方自治体に設置され始めたモニタリングポストで代替できるとの理由で、2005年度をもって終わる。放射能に関する事業は、気象研の研究事業だけとなった。文部科学省がふり分ける放射能調査研究費でまかなわれる。

 気象庁の本省は国土交通省だが、その予算に口をはさむ余地はない。国交省大臣官房の主査は「窓口なので一応、ここを通って手続きは進みますが、右から左へ素通りです」。

 文科省の担当は原子力安全課防災環境対策室。係長の山口茜はいう。「事故の緊急対応に予算をまわしたいと財務省がいってきたのです」

 緊急時に使える予備の財源などはなかったのだろうか。

 財務省主計局の担当主査、佐久間寛道はいう。

 「いきなり予備費や補正予算を使って、増税することで国民に納得いただけるでしょうか。まずはすでに与えられた予算、つまり放射能にかかわる予算から見直すのが当然です。新年度事業が始まってからでは調整できなくなります」

 今回のような非常事態でも、放射能対策費は関連予算を削って対応しろ――。それが国の論理らしい。そのため、半世紀以上継続した放射能観測が止まりかねなかった。

 気象研に32年勤めた上智大客員教授の広瀬勝己(63)は「放射能は国民が神経質になる。だから責任は負いたくない、かかわらない、それが気象研の体質でしょう」という。

 「世界最長の観測を、事故の放射能をとらえている最中に中断したら、国際的に責められる問題。予算がないとの理由なら笑いものです。データは後から絶対にとれません」
 青山は10月3日、内閣府の「職員の声」にメールを送った。福島原発事故後の気象研の行為の検証を求める第三者委員会の設置の提案だ。
(中山由美)


おわりつづく


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ネットに落ちてたわな、「罠」 その6

■研究者の辞表:16

 「俺の目の前に保安院のトップがいたんだよ」

 10月31日夕、東京・永田町の議員会館。原発事故当時の首相、菅直人(65)は強調した。

 菅が憤るのは3月11日夜に官邸中枢が避難区域を決めた際、原子力安全・保安院のERC(緊急時対応センター)が「いきなり結論が下りてきた」と受け取ったこと。それはおかしい、官邸中枢に保安院長がいるんだからERCが知らなかったことにはならない、と菅はいうのだ。
 浮き彫りになるのは対策本部長の菅と対策本部の事務局長を務める保安院長、寺坂信昭(58)の間で重要な会話が成立していなかったことだ。ERCが避難区域を決めようとしていたのも知らなかった、寺坂は自分にSPEEDIのことも言わなかった、と菅は明かす。

 寺坂は私たちの取材に応じていない。保安院は、すでにOBとなっているにもかかわらず、寺坂への取材を強く規制している。

 当時、菅の前には原子力安全委員会の委員長、班目(まだらめ)春樹(63)もいた。

 3月11日の午後6時以降、内閣府にある安全委員会事務局のSPEEDI端末に文部科学省が1時間ごとに出す予測図が次々と届き始めていた。事務局は同じ予測図が文科省から官邸に送られていると思っていた。それゆえ班目に届ける手だてを取らなかったのだが、実際は文科省から官邸に届くルートはなかった。

 結局、文科省は予測を発するだけで終わり、安全委員会も官邸に予測を届けず、保安院が官邸中枢に届けた予測図は0~3枚。保安院はSPEEDIで避難区域案を作ろうとしたものの、それも実らなかった。

 SPEEDIは避難区域づくりにも使われず、公開もされず、官邸中枢は3月20日前後まで存在すら知らなかったと主張している。

 これにより、最も影響を受けたのは浪江町山間部から飯舘村長泥(ながどろ)周辺にかけての高線量地域にいた人たちだ。最も放射線値が高いとき、長泥地区は懸命に炊き出しをしていた。自分たちのためではない。南相馬市からの避難民を助けるためだ。

 浪江町の津島にも大勢が避難していた。避難者が多すぎて炊き出しのお握りは小さくなったが、みんな1日それ1個で我慢した。役場の職員の多くはそれさえ食べなかった。消防団は地面に穴を掘ってトイレをつくった。津波の修羅場を越え、放射能から逃げ、それでも人々は整然と動いていた。(上地兼太郎)

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■研究者の辞表:17

 SPEEDI以外にも謎はある。
 福島第一原発の近くに現地対策本部が設置されて5時間後の12日午前0時ごろ、本部長を務める経済産業副大臣、池田元久(70)は自衛隊のヘリコプターで現地に入った。
 現地本部のメンバーは事前に決まっている。たとえば茨城県ひたちなか市にある原子力緊急時支援・研修センターの7人は、12日午前1時半に現地本部を目指した。センター長の片桐裕実(59)が振り返る。

 「ところが国道6号が大渋滞で。本来は1時間の距離なんですが、2時間かかって自衛隊の百里基地に着き、4時半ごろヘリに乗りました」

 ヘリは山上の駐屯地に着陸し、自衛隊の車で現地本部へ向かった。

 「まだ雪があったので、機材を運ぶのがしんどかったのを記憶しています。現地対策本部に着いたのは午前6時から6時半ごろでした」

 現地本部の通信はほぼ全滅していた。使えたのは二つの衛星電話だけで、1本は東京の原子力安全・保安院とつなぎっぱなしになっていた。

 片桐がまずやったのは放射線値を測るモニタリングだった。測定すべき高汚染地域を探すにはSPEEDIの予測図が欠かせなかったが、回線の途絶でデータは入らない。やむを得ず隣の建物にあった風向風速計で放射能の行方を推測した。

 食べ物はほとんどなく、寝る場所もなかった。多くの者は机の上に突っ伏して寝た。疲労が蓄積した。

 片桐らが踏ん張る一方、来るべき省庁関係者が大量に来なかった。

 現地本部には13省庁から45人が集まるはずだった。保安院の審議官を事務局長に、次長が内閣参事官ら4人。残り40人が総括、放射線、住民安全など7班に分かれて各班のメンバーを指導する。これが現地本部の中核といえる。参集には国が交通手段を用意することにもなっていた。

 だが、集合したのはわずか5省庁26人。なぜこれほど集まりが悪かったのか。保安院の原子力防災課長、松岡建志(45)は「災害対応が忙しかったと聞いている」と話す。

 地震や津波への対応で忙しく、原発事故の現地本部には行けなかったという説明だ。以下、課長補佐の中島義人(39)との会話。
 
――こっちが忙しいから現地本部に行けないというのはおかしい。
 「実態としてはそういう状況だったと聞いている」

 ――怖くて行かなかったのでは?
 「さあ。それは直接聞いてもらわないと……」(依光隆明)

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置き忘れたファイル

■研究者の辞表:18

 3月12日早朝、原発から5キロに位置する現地対策本部に入った片桐裕実(59)らは、福島県庁のワゴン車を借りて周辺の放射線値を測定した。

 12日午後には1号機の水素爆発に遭遇した。片桐がいう。「測定に出ていた人間は原発に比較的近いところにいて、すぐ戻ってきて。すごい爆発があったと報告を受けました」
 14日午前、3号機の爆発音は現地本部にも響いてきた。「これは音が聞こえました。白煙が出て、けっこうびっくりする音でした」

 測定に出た者は放射能の恐怖に耐えながら放射線値のデータを取っていた。SPEEDIは予測値だが、これは実測値だ。なにより住民の避難に使う必要があった。放射線量が高くなっている地域を見つけ、そこにいる住民を一刻も早く避難させなければならない。

 しかし現地本部は孤立状態にあった。貴重なデータを取ったものの、それを東京の対策本部に送る手だてはない。「やはり通信手段がなかったのが致命的でした」

 さらにもう一つ、片桐にとって残念なことがある。

 「こういったデータが公表されたのは6月なんですね。3月12日、13日あたりのデータが移転先の県庁にうまく引き継がれなかった」

 現地本部は15日に福島県庁まで撤退する。その際、データを入れたファイルを現地に置き忘れていた。回収したのは5月28日になってから。事故直後の放射線値のほとんどは、6月3日まで表には出なかった。

 表に出たデータも、極めて分かりにくかった。

 3月15日夜、文部科学省茨城原子力安全管理事務所の渡辺眞樹男(57)が測定した浪江町赤宇木(あこうぎ)の毎時330マイクロシーベルトは、翌日同省のホームページ(HP)に載せられた。

 ところが肝心の測定地点は、ほとんど地名のない地図上に○で囲んだだけ。町の関係者ですらその地点を認識できなかった。これでは分からないという指摘は多かったが、改善はしなかった。同省科学技術・学術政策局次長の渡辺格(いたる)(53)は、「電話での問い合わせもあり、そのときはお教えするようにした」。

 発表方法がHPだけというのも批判の的になった。浪江町は住民とともに役場も転々と避難を続けていた。インターネットに載せても見ることができない。

 まるで情報が出し渋られるかのように、大事なデータは末端まで届かなかった。(依光隆明)

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「布団かぶれーっ」

■研究者の辞表:19

 SPEEDIの存在を認識したあとも、官邸は予測図を公開しなかった。それに関連し、首相補佐官の細野豪志(40)は、5月2日の記者会見で「国民がパニックになることを懸念した」と説明した。

 住民に情報が届きにくかった背景には、おそらくそんな国の思想がある。だが実際には政府自身がパニックに近いような混乱ぶりだった。
 避難区域の決定をめぐる原子力安全・保安院と官邸との食い違いもそうだし、現地本部撤退時に起きたデータの置き忘れもそう。そのとき、保安院の検査官全員が一時的に原発から退く事態も起こっていた。

 検査官は原発内でその状態を監視する唯一の国の人間。福島第一には5人いて、常に1人は原発に詰めている。ところが現地本部が福島県庁に撤退した3月15日昼、5人全員が県庁に退いた。東京電力が原発から全員を撤退させたいと言った言わないの話が出るのもそのころだ。

 現地本部の撤退作業も余裕はなかった。保安院の原子力防災課長、松岡建志(45)は「20キロ圏に住民が残っていないのを確認して撤退した」と強調する。が、住民はいた。

 浪江町役場から4キロ、原発からは10キロ北西に住む原二郎(75)と妻の良子(76)は、17日の午後に偶然訪れた2台のパトカーに救出された。

 夫妻はガソリンがないために避難できなかった。草刈り機のガソリンを抜いてみたが、1リットルしかない。仕方なく、自炊しながら家にとどまった。停電だったが、プロパンガスは使えた。水は井戸からくんだ。家の電話も携帯電話も通じなかった。

 14日午後2時半には落雷のような破裂音を聞いた。原は「原発爆発したぞ、布団かぶれーっ」と良子にいった。1時間、2人で布団をかぶっていた。布団の中から外を見ると、原発の方向に火花がピカピカ見えた。それが5分間続いた。3号機の爆発は午前11時だが、「自分が見たのは午後2時半だった」という。

 救出してくれた警官は防護服にガスマスク姿の4人組だった。「何やってんだ!」と怒鳴られたので「申し訳ないことで」と謝った。「理屈はいいから早く乗れ!」といわれ、1人ずつ別のパトカーに乗った。

 避難した翌日、別の町民も助け出されてきた。良子はいう。

 「どもこもなんないんだわ、ガソリンないんだから。近所も誰もいないし。軽トラックで行ける所まで行こうとして、おにぎり握ってたらパトカーがきた」(依光隆明)


まだあるでよ

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言論圧力が続く隠蔽日本 「おしどりマコ」





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東電会見、反原発で、「もうむちゃくちゃ圧力かかりまくりですよ」


「おしどり」頑張れ、心ある全日本人が応援してるぞ、ありがとう。


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ネットに落ちてたわな、「罠」 その5

研究者の辞表(13)送られなかった167枚」

SPEEDIの予測データはどう流れたのだろうか。(=上地兼太郎朝日新聞記者)
震災から約4時間後の3月11日午後7時3分、国は原子力緊急事態宣言を出す。首相官邸に原子力災害対策本部ができた。
経済産業省の原子力安全・保安院は、対策本部の事務局を担う一方、同省別館3階に緊急時対応センター(ERC)を立ち上げた。他省庁からも人がかき集められた。
SPEEDIの予測は本来、文部科学省が原子力安全技術センターを使って1時間ごとに行う。出来た予測図は保安院にも送られるが、保安院は独自の予測も出そうとした。それに向け、同日夜には同センターのオペレーターをERCに入れた。
保安院が独自で行った1回目のSPEEDI予測は午後9時12分に出た。翌12日午前3時半に福島第一原発2号機でベント(排気)をした場合、放射性物質はどう拡散するかという予測だ。放射性物質は南東の太平洋へ飛ぶ結果が出た。
12日午前1時12分に2回目の予測。今度は同時刻に1号機のベントを仮定した。これも海へ拡散していた。保安院は16日までに45回173枚の独自予測をはじき出した。

保安院の予測の特徴は、様々な情報を集めて放射性物質の放出量を推測したことだ。放出量を1ベクレルと仮定した文部科学省に比べ、予測の精度は高かった。

官邸の地下には、各省実働部隊が詰めるオペレーションルームがある。保安院は課長補佐以下の職員数人をそこに出していた。保安院から予測図を受け取る専用端末も備(そな)えられていた。
官邸5階には首相の管直人ら災害対策本部の中枢が陣取っている。避難区域を決めたのはこの中枢であり、その決定にはSPEEDIの情報を参考にすることになっている。ということは、予測図は専用端末を経て5階まで運ばれていなければならなかった。しかし・・・。

オペレーションルームの専用端末に送られたのは1,2回目の予測図だけ。保安院が独自で行ったSPEEDI予測のうち、43回167枚はERC内で止まっていた。
しかもプリントアウトして内閣官房の職員に渡したのは2回目の分だけだった。2回目の予測図はA4判で計3枚だが、そのうち何枚を渡したか、渡した後どうなったかも保安院は確認を取っていない。何故(なぜ)こんなことになったのか。

 研究者の辞表(14)二つの<やらねば>」

商業用原子炉の規制、監督をつかさどるのは原子力安全・保安院だ。今回の事故でも、保安院の動きは最大の焦点だった。(=上地兼太郎朝日新聞記者)
事故当時を知る幹部や現場職員に話を聴きたいと何度も依頼した。もちろん保安院には出向いて話を聞いた。関係者の自宅にも何度か手紙を出し、ときには玄関まで足を運んだ。

保安院の広報は「職員個人への取材はご遠慮いただきたい」と言ったが、当事者から聞かねば分からない事もある。保安院は「担当課から答えさせる」と強調しながら、その答えは常に要領を得なかった。
保安院はすでに民間人となった幹部OBへの取材も規制した。「事故当時のことはすべて担当課が答える」という理屈だった。

そんな中、事実の断片を積み上げながらSPEEDIをめぐる経緯を知ろうとした。匿名(とくめい)を条件に明かしてもらったこともある。

以下、今の時点で最も事実に近いと思われる経過はこうだ。
3月11日午後7時過ぎ。官邸に原子力災害対策本部ができた時、原発から5キロの場所に現地対策本部が作られた。原子力防災マニュアルでは現地本部が対策の中心だ。SPEEDIを使って住民の避難区域案を作るのもここの役割だった。

しかし現地本部は地震の揺れで通信回線が途絶していた。要員の集まりも悪い。とうてい、避難区域を検討できる状態ではなかった。
現地本部が機能しない場合、避難区域を考えるのはどこか。意図しないまま、保安院と官邸で重大な勘違いが生じていた。

東京・霞が関。経済産業省別館3階にある保安院の緊急時対応センター(ERC)は、避難区域の案を作るのは自分たちしかいないと確信していた。官邸に置かれた対策本部の事務局は保安院であり、その中核がERCだからだ。
放射線班が避難区域案作りを担当し、原子力安全技術センターに注文してSPEEDIの予測図をはじきだそうとした。住民の避難には放射性物質の拡散予測が欠かせない。班員らは必死だった。

一方、官邸5階に陣取る対策本部の中枢は違う考えを持っていた。現地が機能しなくなった以上、自分たちが避難区域を決めるほかない。官邸中枢はERCの存在を認識できないほどあせり、混乱していた。
時刻は11日の夜9時前後。ERCと官邸で、別々に避難案づくりが進んでいた。(=続く)

 研究者の辞表(15)官邸独断 室内は騒然」

事実に近いと思われることをさらに続ける。(=上地兼太郎朝日新聞記者)
3月11日午後9時12分、経済産業省別館にある原子力安全・保安院のERC(緊急時対応センター)は、独自に注文した1回目のSPEEDI(スピーディ)予測図を受け取った。
SPEEDIは放射性物質の拡散を最大79時間先まで予測できる。その能力をフルに使って将来の拡散範囲を予想し、危険地域にいる住民を避難させなければならない。

放出された放射性物質は風に流されるため同心円状には広がらないのが常識だ。何時間後、何処(どこ)に汚染が広がるか。ERCはSPEEDIの予測を続けて汚染区域を見極めようとした。ところが・・・。
その矢先の午後9時23分。原子力災害対策本部長の管直人は同心円状の避難指示を発する。原発から3キロ圏内の住民は避難、10キロ圏内の住民に屋内退避、という内容だった。

対策本部の事務局は保安院が担当し、その中核はERCだ。そこには全く連絡が無いまま、いきなり結論だけが下(お)りてきた。官邸中枢が独自の判断で決めたのだ。
避難区域の案を作っている最中に、一体どうしたことか。ERCは驚き、室内は騒然とした。官邸中枢が避難区域を決めてしまった以上、自分たちに役割はない。そう即断し、この段階でERCは避難区域案づくりをやめてしまう。

官邸中枢が発した避難指示は12日午前5時44分に原発から10キロ、同日午後6時25分に20キロと広がっていった。いずれも同心円状だった。
ERCは16日までに45回もSPEEDIの計算を繰り返すが、それは避難区域を決めるためではなく、官邸中枢が決めた避難区域について検証するためだった。

同心円状に広がらないのは原子力防災の常識なのに、同心円状に避難指示が出る。そのおかしさを感じながらERCはそれを追認した。発せられた避難指示を否定する根拠がない以上、追認が妥当と考えた。
その後、政府はこう強調した。放出された放射能量が不明だったのでSPEEDI予測はそもそも役に立たなかったのだ、と。ERCがSPEEDIを使って避難区域案を作ろうとしていたことは伏せられた。

同心円状の避難指示で最も矛盾が生じたのは、20キロ圏外にある放射線量の高い地域だった。SPEEDIの予測図では20キロ圏をはるかに超え、北西方向に高線量地域が伸びていた。


おわり つづく

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ネットに落ちてたわな、「罠」 その4

研究者の辞表(7)教えない、貸さない

飯舘村長泥(ながどろ)の区長、鴫原(しぎはら)良友(60)は福島市で避難生活を送っている。彼の記憶をさらにたぐる。

3月20日の数日前、長泥。白ワゴン車に乗る防護服男とのやり取り。

「車の中の男たちはみんな線量計を二つずつ持ってんだからあ、一つだけ貸さないかといったんだ。あの人たち、積算のやつと二つ持ってんだからな」

「線量計を見ないのかっていったら見ないんだっていうんだけど、貸さないんだよ。長泥地区にひとつ貸してくれ、おらが見て、みんなにこうだというからと」

「分かった。貸さねえんなら今度は掲示板書けといったんだ。それでもすぐには書いてくれなくてな。書いてもらうまでに1週間くらいかかった」

鴫原の要求で、やがて地区の掲示板に数値が載り始めた。さかのぼって載せたのだろう。17日が毎時95.1マイクロシーベルトで、18日が52、19日59.2、20日60、21日45、22日40、23日35、24日30、25日27……。

放射線量の低下に従い、男たちの格好は変化した。ガスマスクに防護服姿が、やがて普通のマスクに変わった。防護服もいつの間にか普通の作業服に替わっていた。

住民が普通に住む場所に防護服姿で乗り込み、測定値を聞かれても教えない。測定するから線量計を貸してくれ、と求められても貸さない。

傍ら、政府は安全といい続けた。

3月18日午前。官房長官、枝野幸男の記者会見。

「周辺の数値でございますが、部分的に大きな数字が出ているところはありますが、全体としては人体に影響を与える恐れのある大きな数値は示されておりません。若干高い数値が出ているポイントがございますが、ここについても、直ちに人体に影響を与える数値ではないと」

23日午後にはこう言った。

「30キロ圏外の一部においても、年間100ミリシーベルト以上の被曝(ひばく)線量となり得るケースも見られますが、現時点で直ちに避難や屋内退避をしなければならない状況だとは分析をいたしておりません」

住民は安全と信じて住み続けるほかなかった。鴫原はいう。

「防護服の男たちが来たとき、子どももいたよ。俺の孫もいたもんな。まあ、10人か20人いた」

防護服男は「文部科学省の下請け」的ないい方をした。彼らはなぜこれほど秘密主義だったのか。(依光隆明)

*2011.10.23朝日新聞朝刊
―――――――–

研究者の辞表(8)「箝口令」と呼ぶ文書

一枚の文書がある。

旧日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)が1999年10月に出した。放射能の影響予測や放射線量のデータを公表する際のルールを記した一枚紙だ。

外部からデータの提供依頼があれば、依頼された者はデータ管理者にお伺いをたてる。管理者は部長に聞き、部長は所長に聞き、所長は副理事長に聞く。

副理事長がOKを出すと、逆の順番でOKが伝達され、安全管理室を通じて外部に提供される。注釈が付いていて、「学問的に十分な質であることを確認」とある。

要するに、相当に面倒な手続きを踏まなければ外部にデータを出せないことになっている。

「われわれはこの文書を『箝口令(かんこうれい)』と呼んだんですよ」

同機構労組の委員長を長く務める岩井孝(54)が説明する。同労組の略称は原研労組。機構には旧動燃系の原子力研究開発労組もある。

「自分たちが知った情報は、たとえ住民のためになることでも職務上の秘密だ、出すなということです」

文書が出たのは同年9月30日の東海村臨界事故直後。つまり、臨界事故に伴う各種データを流出させないためにこの文書が作られた構図になる。だから「箝口令」。

「あのとき、われわれの仲間が測りに行ったんですけど、なかなか国がそのデータを出さなかった。住民被曝(ひばく)の懸念を示すデータもあったのに、出さない」

個人で出せば処分が待っている。ならば組合でまとまってやればいいのではないか。そう考え、組合として住民に知らせるべき情報を出したりしたという。

同じようなことが、12年後の今も繰り返されている。

「原子力機構にはモニタリングや環境測定を仕事にしている人たちがいます。その人たちが動けない。だめだ、放射線量を測ってもデータを出せないんだという。なぜ出せないんだと聞くと、国が情報を管理するから機構として測っても発表できない、と上司にいわれたと」

データなんだから出さないのが間違っている、と岩井は憤る。

「出すべきものを出さない、だから国のいうことは信用されない」

「放射線量を書いたメモも廃棄しなくちゃだめだといわれているんです。外に流れたら困るからと」

一枚紙の時代とそう変わってないな、と岩井は思う。(依光隆明)

*2011.10.24朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(9)暴力団からスカウト

現在、放射線量を測るモニタリングの定点は文部科学省が決め、日本原子力研究開発機構の研究者らが計測に当たっている。

「研究者が単なる作業員になってるんですよね」。日本原子力研究開発機構労組(原研労組)の委員長、岩井孝(54)がいう。

「定点で測るのもそれはそれで意味はありますが、それ以外に、線量の高い場所などを探して歩くことが絶対に必要なんです。そういう意味では研究者は歯がゆい思いをしていると思います」

その歯がゆさを、辞職という手段で飛び越えたのが木村真三(44)だった。勤めていた労働安全衛生総合研究所に辞表を出し、縦横に動いて放射線を測定した。時には住民にデータを示して危険を説明した。

やっと得た職を辞してまで現場に行く。木村が思い切った行動を取った背景には、おそらく木村の反骨心と独特の経歴が影響している。

木村は愛媛県西南部、四万十川の支流に広がる広見町(現鬼北町)で生まれた。父は傷痍(しょうい)軍人の町職員で、厳格だった。母は保育園長。小学校から高校まで地元で過ごす。

実は相当な不良だった。

「小学3、4年のとき、いじめられている女の子をかばったら今度は僕が徹底的にいじめられたんです。中学に入ったときに思いました。こいつらよりもっとワルになったらこいつらをたたきつぶせる」

授業に出ず、体育館の屋根裏でたばこを吸った。けんかもした。北宇和高校に進んでも同じだった。けんかに勝つため体を鍛えに鍛えた。177センチの身長にがっしり筋肉がついた。一時はプロレス入りも考えた。

卒業間際には暴力団にスカウトされた。

「お前やったら頭も切れるけん、うちに来い。舎弟分の事務所が松山にあるから、そこで1カ月修業して、それからうちに来い、と。就職の誘いは暴力団だけでした」

父親は「お国のために死んでこい」といった。自衛隊に入れ、という命令だった。そのとき、木村は人生でし忘れていることはないかと考えた。そういえば勉強をやったことがなかった。大学に行きたいな。

もともと天文学者になる夢を持っていて、ぐれてからも天体観測を続けていた。物理学を学びたい、と思っていた。父親は「お前みたいなやつに勉強する資格はない」と怒ったが、母親が「私がお金を出します」といってくれた。(依光隆明)

*2011.10.25朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(10)伝える、それが救う道

異色の研究者、木村真三(44)の過去を続ける。

大学行きは決めたが、学力はない。愛媛の山あいから出た先は高知市だった。市郊外にある予備校の寮に入り、自転車で予備校に通った。

「一念発起して勉強しました。英語の偏差値は29から60まで上がりました。長文解釈が得意でした」

友人が「山口県に東京理科大の短大ができる。そこなら理科大に進める」と教えてくれた。助言に従ったものの、当初は素行不良だった。

「1年の夏休み明けに面接があって、進学したいって言うと、行けるところはないと言われたんです。そこでまた一念発起して。助教授に『生活改め表』を書 けと言われて書いて、必死に勉強した。自分より成績の低い仲間が東京理科大への編入を決めていくのに反発し、国立に行く、九州工大を受ける、と」

推薦をくれた教授が「お前は二部(夜間)で働く人の大変さを味わってこい」といった。合格し、九州工大の二部に3年から編入する。働きながら熱心に学ぶ人たちの姿は目からうろこの驚きだった。

「これはほんとに勉強せんといけんなあと思いました」

専攻は金属材料で、物理と化学の両方を学んだ。学内で技術補佐員の仕事を見つけ、昼は分子構造の解析プログラムをつくったりした。

卒業が迫り、工業高校の教師を目指すか大学院への進学を考えていた。と、推薦状をくれた山口の教授から電話が入る。「お前、来週からうちの大学の助手だから。もう教授会で決まった」

いや応なく山口に戻り、助手を務めた。1年後、大学院への思いが募り、石川県の北陸先端科学技術大学院大に。体内の薬物伝達を研究し、2年で修士課程を修了。博士課程は北海道大に進み、パーキンソン病のメカニズム研究で博士号を取る。

妻の実家が会津の出ということもあり、木村は3月から福島に半ば入りっぱなしで内部被曝(ひばく)調査や汚染地図づくりに取り組んでいる。

木村の信念は「研究成果は住民のもの」だ。仮に深刻な値であっても住民に知らせ、意味を説明することが人々を救う道だと信じている。

だが、木村の考え方は多数派ではない。たとえば3月18日、日本気象学会は会員に研究成果の公表自粛を呼びかけた。「防災対策の基本は、信頼できる単一の情報に基づいて行動すること」が自粛の理由だった。(依光隆明)

*2011.10.26朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(11)ピンポイントの指示

放射線衛生学の研究者、木村真三(44)らが福島に入った3月15日は、朝6時すぎに福島第一原発の2号機が破損、大量の放射性物質が放出されていた。

原発から5キロの場所には11日夜に国の現地対策本部ができていた。しかし14日夜には2号機の状態を懸念して撤退方針を決める。同日夜から撤退を始め、15日午後には原発から60キロ離れた福島県庁に退いた。

撤退組の一人、渡辺眞樹男(57)は福島県庁に移った後の15日夜に指示を受けた。「大変な事態になっている。測定に行ってくれ」

渡辺は文部科学省茨城原子力安全管理事務所から応援に来ていた。指示された場所は浪江町山間部の3カ所。ピンポイントだった。神奈川北原子力事務所の車 で現地に行き、午後9時ごろ放射線量を測る。数値を見て驚いた。3カ所とも高く、特に赤宇木(あこうぎ)は毎時330マイクロシーベルト。

「いやもう、信じられなかった」と渡辺は振り返る。すぐ報告しようとしたが、携帯はつながらない。雨模様だったので衛星携帯も使えなかった。急いで川俣町の山木屋まで戻り、公衆電話から報告をした。戻る途中、点々と人家の明かりが見えた。まだ大勢の人が残っていた。

「とにかく住民の方々に被曝(ひばく)をしてほしくなかった。線量が高いと報告し、早くこの線量を発表してください、とお願いをしました」

実はこのとき渡辺は防護服を着ていなかった。県庁への撤退が慌ただしかったため、防護服の類は現地本部に放棄していたからだ。

「不思議と自分のことは考えていないですよね。こんな時だからこそやらなきゃいけない、と」

必死の思いで渡辺が伝えた数値は、しかし住民避難に使われはしなかった。文科省は16日にその数値を発表したが、地区名は伏せたまま。浪江町に知らせる こともなかった。町は危険を認識せず、一帯に残る住民に伝えることもなかった。なにより官房長官は「直ちに人体に影響を与えるような数値ではない」と会見 で述べていた。

それにしても、なぜ対策本部は高線量の場所をピンポイントで知っていたのか。渡辺は言う。「ポイントをどなたが決めて指示されたのか、私もいまだに分かりません」

元をたどると、指示は文科の本省だった。根拠に使われたのはSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)。同省は汚染の概要をつかんでいた。(依光隆明)

*2011.10.27朝日新聞朝刊

研究者の表(12)いきなり同心円避難

3月15日、毎時330マイクロシーベルトの値が出る場所を、なぜピンポイントで指示できたのか。(=依光隆明朝日新聞記者)

東京・霞が関の文部科学省。時に身ぶり手ぶりを交えながら、科学技術・学術政策局次長の渡辺格(いたる)さん(53歳)説明する。「実は、単位放出のSPEEDIを使いました」。

SPEEDI(スピーディ)とは、放射能の影響を予測するシステムのことだ。放出された放射性物質がどう広がるのか。風向きや風速、地形を計算し、飛ぶ範囲を予測する。

放射性物質は同心円状には広がらず、汚染エリアは複数の突起を形成する。そのエリアをSPEEDIで予測し、迅速に住民を避難させなければならない。それが原子力防災の基本中の基本とされている。

予測の基(もと)になるのは、原発からの放出源情報だ。ところが今回の事故ではそれが入手できなかった。

しかし、そういう事態でも仮の値を入力することで予測ができる。それが、1時間に1ベクレル放出したと仮定する「単位放出」で計算するやり方。渡辺さんはその手法で正確に高汚染地域を把握していた。

渡辺さんが特殊な手法を用いたわけではない。原子力安全委員会が定めた指針では、事故発生直後は放出量を正確に把握することが難しいため、単位放出または事前に設定した値で計算するとある。そうして計算した予測図形をもとに、監視を強化する方位や場所を割り出していく。

「単位放出で情報を流す、という点ではマニュアル通りでした。放出量が分からないときに単位放出を各関係者に配るというのがマニュアルになっていましたから」。

マニュアルによると、配る先は一部の省庁と原子力安全委員会、福島県、そして現地対策本部。「実際に避難範囲を決める場合、SPEEDIを使ったのかどうかは文部科学省では分かりません。避難範囲を決めたのは文科省では無く、原子力対策本部ですから。今回は本来の使い方はされず、いきなり同心円状で避難の指示がなされた」。

マニュアルでは文科省は情報を出すだけで、それを使って避難指示を出すのは原子力災害対策本部、つまり官邸だ。

しかし、首相の管直人も、経済産業大臣の海江田万里も、官房長官の枝野幸男もSPEEDIを知らなかったと主張する。特に海江田と枝野は20日過ぎまで知らなかったと国会答弁している。いったいどうなっていたのか。



またつづく

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ネットに落ちてたわな、「罠」 その3

 研究者の辞表(1)測定 まず僕が行く

 3月11日午後。地震の瞬間を、木村真三(44)は川崎市にある労働安全衛生総合研究所で迎えた。

 研究所員の木村は、放射線衛生学の専門家。医師や看護師の被曝(ひばく)調査や、チェルノブイリ事故の現地調査に取り組んでいた。

 大きな揺れの後、木村はテレビに駆け寄って「原発どうなった!」と叫んだ。大丈夫、とテレビは報じていた。千葉県市川市に住む家族とは翌日の午前2時まで連絡が取れなかった。

 翌12日は土曜日だった。家族と会うことができ、午後は3歳の長男と買い物に出かけた。家に戻ると、妻がいった。「原発が爆発した」。瞬間、木村は反応していた。スーツに着替え、長男に「お父さん、しばらく帰ってこないから」と告げた。

 研究所に戻って現地入りの準備をした。住民を放射線から守るにはまず測定しなくてはならない。それには速さが求められる。時間がたてばたつほど測定不能となる放射性物質が増える。急ぐ必要があった。

 準備を急ぎながら、木村は最も信頼する4人の研究者にメールを出した。京大の今中哲二、小出裕章、長崎大の高辻俊宏、広島大の遠藤暁。

 「檄文(げきぶん)を出したんです」と木村は振り返る。

 「いま調査をやらなくていつやるんだ。僕がまずサンプリングに行く。皆でそれを分析してくれ、と書きました」

 えりすぐりの人たち、と木村はいう。

 「全員、よし分かったといってくれました。一番返事が早かったのは小出さんです。私は現地に行けないけれども最大限の協力をします、と。あとの人たちからも次々と返事がきました」

 木村はその檄文を七沢潔(54)ら旧知のNHKディレクター3人にも回した。測定したデータを公表する手段が要る、と考えていた。

 じきに携帯電話が鳴った。七沢だった。七沢は七沢で知り合いの研究者と連絡を取りまくっていた。七沢はいった。「特別番組を考えている。協力してくれないか」

 13日に市川で七沢と会った。打ち合わせを終えて七沢と別れたとき、携帯に研究所からの一斉メールが入った。研究所は厚生労働省所管の独立行政法人。文面にはこうあった。

 〈放射線等の測定などできることもいくつかあるでしょうが、本省並びに研究所の指示に従ってください。くれぐれも勝手な行動はしないようお願いします〉

 研究所に放射線の専門家は自分しかいない。これは自分に向けて出されたメールだ。木村はそう思った。自分の現地入りをとめるつもりだ、と理解した。(依光隆明)

*2011.10.17朝日新聞朝刊

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研究者の辞表(2)家人には一切いわず

 木村真三(44)は、1999年に起きた茨城県東海村の臨界事故を思い出した。

 当時、木村は千葉市にある放射線医学総合研究所に勤めていた。同僚とすぐ調査に行こうとしたが、許可が出ない。休日に有志で周辺を調査し、本格的な調査に向けて根回しを始めた。と、上司から「余計なことをするな」と大目玉を食らう。

 「3月13日のメールを見て放医研のときと同じだなと思いました。同じことを繰り返したら死ぬまで、いや、棺おけに入っても後悔する」

 出した結論は、労働安全衛生総合研究所を辞めることだった。

 「家人には一切いわず、すぐ研究所に行って総務課長の机の上に辞表を置いてきました」

 軽い決断ではなかった。任期5年の満期で放医研を辞めた後、木村は専業主夫を経て塗装工になった。雨の日以外は土日もなく働いた。ただ、ときどき休みをもらった。

 「明日はつくばで論文書かないかんのよとか、京大で実験に入るからとか。研究者公募情報はずっとチェックしていました」

 1年半後、公募情報で労働安全衛生総合研究所がアスベストの研究者を募集していると知る。「アスベストの中皮腫はプルトニウムによる症状とよく似てるんです。で、アスベストは知らんけど放射線は知ってると書いたら採用されました」

 そのとき40歳。正職員になったのは生まれて初めてだった。悪い職場ではなかった。「労働衛生と関係ないからチェルノブイリ調査事業は廃止を」と求められた際も泣く泣くのんだ。「事業は廃止になるが、自腹でも調査を続ける」と仲間にメールしたのは原発事故直前。研究者が職を得る苦労は身にしみていた。

 それだけに、職を手放したことは妻に言えなかった。思い切って打ち明けたのは3月の終わり。妻の言葉は「あなたらしいわね」だった。

 NHK教育テレビのETV特集ディレクター、大森淳郎(53)は、原発事故の直後から関連番組づくりを考えていた。行き着いたのは、原発に詳しい七沢潔(54)を呼ぶこと。七沢は現場を離れ、放送文化研究所の研究員を務めていた。3月14日、プロデューサーの増田秀樹(48)に相談すると、「すぐ呼ぼう」。

 その日の夕方、七沢と木村が東京・渋谷のNHK6階に現れた。木村は測定器や防護用品をたくさん抱えてきて、「明日から行くんです」と主張した。(依光隆明)

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研究者の辞表(3)雨がっぱとゴム長

 3月15日。木村真三(44)とNHKの七沢潔(54)、大森淳郎(53)は、ロケ用のワゴン車で福島に入った。

 途中、ゴム引きの雨がっぱとゴム長靴を買い求めた。人がいる地域に防護服で乗り込むのは違和感がある、と考えた。

 長靴をはき、その上からポリ袋をかぶせて雨がっぱとの間を粘着テープでしっかりとめた。木村の指導だった。マスクも活性炭入り、5層構造の品を木村が用意した。

 放射線量を測り、検査用の土を採取しながら福島第一原発の方向を目指した。汚染はまだら模様だった。毎時300マイクロシーベルトまで測定できる機器の表示が振り切れる場所もあった。原発に近い割には線量が低い場所もあった。

 開いていた三春町の旅館に泊まりながら、とりあえず原発周辺を3日間走り回った。その後、ETV特集プロデューサーの増田秀樹(48)も加わって29日まで断続的に現地調査を続けた。目的は放射能汚染地図を作り、番組にして流すことだった。4月3日の放映を目指した。

 番組放映までの歩みは平坦(へいたん)ではなかった。22日、局内の会議で企画そのものがボツになった。増田はあせった。4月3日のETV特集に穴が開く。かといって震災と関係ない番組はやりたくない。七沢らと話し合い、三春町に住む作家、玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)とノンフィクション作家、吉岡忍の対談を番組にして放映することを決める。それが24日だった。

 だが、放射能汚染地図を柱とした番組づくりもあきらめてはいなかった。25日、増田が大森に連絡した。

 「30キロ圏内も入れるぞ」

 NHKは30キロ圏内入りを自主規制していた。入れるというのは勘違いで、のちに増田は始末書を取られることになる。大森は郡山で借りたレンタカーを運転して浪江町や葛尾村、南相馬市を駆けまわった。

 大森は昨年夏、「敗戦とラジオ」という番組を作っていた。その中で感じたのは大本営発表の危険性だった。戦時中、なぜ報道機関は大本営発表しかできなかったのか。

 大森は戦時中の「勝った」「勝った」という大本営発表が、今の政府の「大丈夫」「大丈夫」と重なってしようがなかった。大本営的発表があったとき、それを疑わないと意味はない。あとで振り返っても何にもならない。たとえ厳しい放射線値が出ても、本当の数値を報じることが重要ではないか。そんな思いに突き動かされていた。(依光隆明)

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 研究者の辞表(4)「これは棄民だ」

 3月27日。NHKの七沢潔(54)と大森淳郎(53)はレンタカーで浪江町の山間部を走っていた。

 昼曽根トンネルを西に抜けた辺りで毎時20マイクロシーベルトまで測定可能な表示が振り切れる場所があった。まさか人はいないよなあ、と2人で一軒の家を訪れると人がいた。

 なぜまだここにいるのか。驚いた七沢が尋ねると、「町が何も言ってこないから」。

 元板前の天野正勝(70)。20キロ圏外なので、ここは安全だと信じていた。心臓に不安を抱え、避難所には行けないとも思っていた。

 妻と犬と一緒だった。電話が通じないため、誰とも連絡が取れない。携帯が通じる場所まで行ったら親戚に電話してくれ、と頼まれた。

 天野は「近くの赤宇木(あこうぎ)集会所に10人くらいが避難している」と教えてくれた。すでに夕暮れだった。

 集会所を訪れると、12人の避難民が暮らしていた。警戒された。「ほんとにNHK? 私たちを追い出しに来たんじゃないの、と」(七沢)。七沢と大森が持つ線量計の積算値はぐんぐん上がっていた。ここは放射線量が高いです、と言っても12人には信用されなかった。

 それぞれ事情を抱えていた。ペットがいるため避難所に行けない人がいた。隣の体育館には夫婦がいて、段ボールで囲った空間で暮らしていた。妻は足が悪くてポータブルトイレしか使えない、だから皆と一緒には暮らせなかった。夫は心臓の薬が切れたといっていた。

 大森がぽつりといった。「これは棄民だ」。行き場のない12人。正規の避難所ではないため、食料も自分たちで調達していた。

 夜。別行動をしていた木村真三(44)に集会所のことを伝えた。木村は言った。

 「調査は一時中止しましょう。僕が避難を説得します。説得しないと僕の仕事はない」

 翌28日。赤宇木集会所前の駐車場で放射線量を測ると、毎時80マイクロシーベルトあった。木村は驚いた。この数値は人が住めるレベルではない。集会所の中に入り、マスクを外して危険を説明した。所内の線量も毎時25~30マイクロシーベルトあった。

 「線量計の数値を見せ、初めて皆が納得したんです。それまでにも警察や役場が『危ない』と言ってきたが、数値を示したことはなかった。数値を見せたから納得したし、僕が専門家だったことも大きかった」(依光隆明)

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 研究者の辞表(5)放射線量も赤裸々に

 木村真三(44)と調査を続けながら、NHKの七沢潔(54)と大森淳郎(53)、増田秀樹(48)は4月3日の番組づくりを急いでいた。

 もともと汚染地図の作製を番組にする計画だったが、3月22日の会議で企画自体がボツになっていた。急きょ考えたのが、福島県在住の作家、玄侑宗久とノンフィクション作家、吉岡忍の対談。対談の合間に、赤宇木(あこうぎ)集会所に避難している12人の情景を入れることにした。

 赤宇木の放射線量が異常に高いこと、そこに12人が避難していることは27日に七沢と大森が見つけ、28日に木村が避難を呼びかけていた。12人は30日に避難するのだが、その前日、29日に吉岡を集会所に連れて行き、30日の避難もカメラに収めた。

 それから編集。普通1カ月かかるのを3日で仕上げた。若い局員も手伝い、5人で寝ずにやった。「でき上がったのはオンエアの30分前でした」と増田はいう。

 赤宇木のシーンは視聴者に大きな感銘を与えた。

 「NHK内部で取材規制の内規を見直す契機にもなりました。30キロ圏や20キロ圏の中に入って取材するべきじゃないか、と。1週間後の4月12日、内規は変更になりました」

 4月3日の番組が成功したのを背景に、増田らは当初の目的だった番組を実現させる。ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」。放映は5月15日深夜。こちらの反響はさらに大きかった。

 「視聴者から電話が1千件きました。実態が分かった、こういう調査報道こそやってほしい、なぜ深夜にやるんだ、などでしたね」

 発表に頼らず、独自に調査したことが大きかったと増田は振り返る。

 「赤裸々というか、番組では放射線の数字も含めて出しています。政府はパニックを心配していたようですが、実際は逆でしたね。自分たちがどんな状況にあるのか知りたい、という意見が多かった」

 七沢はいう。

 「こんな所までよく来てくれた、と取材中も喜ばれるし、放送した後にありがとうって言われるんです。見た人からありがとうと言われる番組なんて、やったことがない」

 たとえ厳しい数字が出ても、本当のデータを知りたい。増田にはそんな声が届いたという。住民は情報に飢えていたことになる。

 情報はなぜ末端に届かないのか。赤宇木のお隣、飯舘村長泥(ながどろ)ではこんなことがあった。(依光隆明)

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 研究者の辞表(6)車から出てこいって

 原発事故後、浪江町山間部に隣接する飯舘村には南相馬市からの避難民が集まっていた。

 避難してきた人たちに食料が要る。飯舘は村ぐるみ救援に動いた。同村長泥(ながどろ)の地区長を務める鴫原(しぎはら)良友(60)も、地区の家々に米1升ずつの供出を頼んで回った。

 集まった米を炊き、長泥の人たちは握り飯を握って避難した人たちに届けた。3月15日が600個、16日と17日は300個。

 「放射能? そんな意識は全然なかった。原発の交付金も来なかったが、放射能も来ない、そんなふうに信じ切っていたな」

 村の南端にある長泥は、高原地帯に約70軒が点在している。原発からは33キロも離れていて放射能とは縁遠いはずだった。ところが……。

 長泥の南東は浪江町赤宇木(あこうぎ)で、その隣が昼曽根。福島第一原発から見ると北西に昼曽根、赤宇木、長泥と続く。飛散した放射性物質は、それら北西方向の集落に落ちていった。

 「見てみな、3月17日のデータ。毎時95マイクロシーベルトあったんだ。あんとき、おら握ってたんだよ、おにぎり」

 95という値が出ていることも、数字が持つ意味も長泥の人々には知らされていなかった。そればかりではない。鴫原の脳裏には腹立たしい記憶が刻まれている。

 3月20日の数日前と記憶している。地区中心部に白いワゴン車が止まっているのに気がついた。

 「2時間くらいいたんだ、最初。車止めてな。車から棒出してんだ。白い防護服着て。ガスマスクして」

 車から出ることもあったが、すぐまた車に入ってしまう。

 「ちょっと出てきて話しろっていったんだ。おらはこのまんまだから。マスクもしねえで」

 30キロ圏の外は全く安全なはずだった。そこにガスマスク防護服男が現れ、車から出ずに棒を出して測定する。異様な光景といっていい。

 「どうなんだっていっても答えない。線量の数値も教えない。どうなんだっていったらたばこ吸ってんだよ。ふざけんなこのやろうって思って追及したんだよ。文部科学省の職員なのかって聞いたら違うと。なんでこんな車さ。文科省の職員じゃないのかといったら違うと」

 やがて押し問答に。

 「わあわあといってるうちに、今度は下請けなんだと。下請けの下請けなんだと。上さ聞かないとだめだと」(依光隆明)



つづく


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ネットに落ちてたわな、「罠」 その2

防護服の男(7) 早く東京へ来なさい

東京に住む娘の携帯電話の指示で転々と避難を続けた者もいた。菅野みずえの家に避難した門馬洋(もんま・ひろし)(67)と昌子(しょうこ)(68)の夫婦だ。

 自宅は浪江町の権現堂地区で、原発まで10キロない。3月12日朝、町の防災無線が「津島に逃げてください」と避難を呼びかけた。車で知り合いのみずえの家に避難した。

 菅野家には昼前に着いた。昌子はみずえの炊き出しを手伝い、お握りを握った。夕食後、25人の避難民たちが自己紹介しあった。知り合いが何人もいた。

 みずえから白い防護服の男たちの話を聞かされたときは、夫婦はずるずる居残った。

 しかし、翌13日朝、再びみずえから逃げるようにいわれ、昼前に菅野家を出発した。

 とにかく北へ逃げようと、南相馬市を目指した。コンビニも商店も閉まっていた。レストランを見つけた。納豆定食が残っていたので、それを食べた。3軒のホテルに断られ、ようやく見つけたホテルに泊まった。

 14日夜、福島空港から飛行機に乗り、15日に東京の長女と合流した。

 長女の真理子(36)は地震のあと、両親の携帯を呼び続けた。11日の地震直後に、一度通じただけで連絡が途絶える。あとはメールだけだった。

 しかし、メールの返信も途絶えた12日の午前8時43分。

 「お父さんとお母さんの無事を神様にお祈りしています」

 テレビやインターネットで、原発事故の新しい情報を必死で探し、両親に送り続けた。

 1号機が水素爆発した12日の午後9時。真理子はテレビで専門家が「大丈夫」と言っているのを聞いた。「爆発は外壁だけで、放射能をまき散らすものではなかったと判明」。そんなメールを送った。大変な誤りだった。

 両親が南相馬市に再避難した13日には「女川原発まで放射能が飛んでいる。そこも危ない。東京に来なさい」。

 そして14日の正午。「3号機が11時半に爆発した。早く東京へ」

 父は「そこまで行かなくてもいいじゃないか」と返してきた。真理子は「とにかく早く来なさい!」と叱った。

 責任のある人たちは、だれも両親を助けてくれようとしなかった。真理子にはその不信感だけが残る。(前田基行)

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防護服の男(8) 「ふるさと」歌えない

 菅野みずえの家に避難した門馬洋(67)は元高校教師だ。福島第一原発がつくられた40年前から反原発運動にかかわっていた。

 当時住んでいた楢葉町(ならはまち)の町営住宅に、住民3人が集まって始めた運動だ。県知事や町長らに危険性を訴え続けた。東京電力とは数年前から毎月1回交渉し、3月22日も交渉が予定されていた。

 原告404人で隣の福島第二原発について裁判を起こしたが負けた。そのとき仙台高裁の裁判長が述べた言葉を今もはっきり覚えている。

 「反対ばかりしていないで落ち着いて考える必要がある。原発をやめるわけにはいかないだろうから」

 それから21年。原発は安全だという幻想はあっけなく崩壊した。

 「東京電力の想定がいかに甘いか。そのために多くの人に、どれだけの被害を与えたか。いったいどう責任を取るつもりなのか」

 しかし、浪江町が今回の事故で「殺人行為だ」と国や東京電力を非難していることについても、同様に違和感がある。

 浪江町にも、東北電力の原発建設計画が40年前からあった。浪江町議会が誘致を求めていたものだった。

 昨年、町内会の会合で町議が洋を見ながらいった。「原発で浪江町の未来は明るくなる。門馬先生は反対でしょうが……」

 7月に一時帰宅したとき線量を測った。家の近くで毎時4マイクロシーベルトあった。

 畑には大きな柿の木がある。長女の真理子(36)が生まれたときに植えたものだ。300個以上の実をつけた年もあった。

 「もう実がなっても食べられませんね。汚染されてしまったから」

 30年ほど前、町内の体育館を借り、東京の劇団を呼んで放射能漏れ事故をテーマにした劇をやったことがあった。原発事故で町民が逃げ惑うというストーリーだった。それが現実になった。

 夫婦は東京都北区の団地に身を落ち着けている。

 家賃は13万5千円と高いが、長女の家の近くに住むため、そこに決めた。東京電力からもらった仮払金100万円を家賃の支払いにあてる。

 洋は福島にいたころから合唱が好きだった。7月、北区で合唱団の催しがあるのを知り、妻の昌子(68)と参加してみた。

 兎(うさぎ)追いしかの山、の「故郷(ふるさと)」を歌った。洋も昌子も途中で歌えなくなった。(前田基行)

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防護服の男(9)

 浪江町の赤宇木(あこうぎ)地区に住む三瓶(さんぺい)ヤスコ(77)は隣の飯舘村から嫁いで55年になる。菅野みずえとは公民館の民謡サークル仲間だ。

 ヤスコは8月初めまで、細い山道を上った一軒家に1人で住んでいた。

 地震直後は、神奈川県の孫娘の1DKのアパートに、富岡町の長女と孫息子の3人で避難した。

 しかし、隣室の食事の音まで聞こえる。周りにも気を使う。「この年になると都会の生活は合わない」。犬と猫のことも気になり、4月末に赤宇木に戻った。

 そのころは、まだ地区に数世帯が残っていた。そのうち1軒減り、2軒減り、誰もいなくなった。警察が30キロ付近で通行規制を始めると、車も通らなくなった。

 さみしくなった。夜は真っ暗だ。何も考えないように思っても手が震え、食べ物がつかえた。

 気晴らしに近くをドライブした。しかし、帰り道はどの家も明かりはない。山道を落ちてもだれも助けにきてくれないと思うと、ドライブが怖くなった。

 日曜になると、背中に「文部科学省」と書かれた作業服の男たちが、地区に放射線量を計測にきた。ヤスコは車がくると出て行き、「今日はなんぼですか」と尋ねる。

 「15マイクロシーベルトだよ」。男は気軽に教えてくれた。

 「私の家も測ってくれんかね」

 別の日、男は家の周辺を測ってくれた。家の外で10マイクロシーベルト、居間で5.5マイクロシーベルトあった。平常値をはるかに上回る量だ。

 男はそれを紙に書いてヤスコに渡した。

 6月初めのある日曜日、男がポツリと言った。

 「今だからいうけど、ここは初め100マイクロシーベルトを超していたんだ。そのときは言えなかった。すまなかった」

 その後も、男は「参考にして」といって、各地域の放射線量が書かれた地図をヤスコにくれた。

 だが、ヤスコは8月初めまで赤宇木にとどまる。

 「放射能は目に見えるわけでないし、数値を聞いてもよく分からなかったのよ」

 8月初め、二本松市の仮設住宅に当たったため、赤宇木を出た。

 しかし、今も2日おきに、約25キロ離れた自宅まで車で通う。

 犬と猫にえさをやるためだ。

(前田基行)

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防護服の男(10)口止めされた警察官

関場和代(52)は3月14日、会津若松市の親類宅に避難した。家は菅野みずえの家に近い浪江町南津島にあった。

 その後も避難指示がないため4月2日、ひとまず自宅に戻った。数日して、家の前に自衛隊のジープがとまり、隊員が降りてきた。安否確認で来たという。

 そのころ浪江町の放射線量が高いことが報道されていた。それが心配で、おそるおそる尋ねた。

 「この辺の線量はどのくらいですか」。隊員はにっこり笑い、ここは大丈夫だと答えた。

 「私たちは線量計を付けています。1日にどのくらい線量を浴びたか分かるんですよ」。和代はそれで安心した。家に閉じこもるのをやめ、近所に出かけていった。

 4月17日。近くの橋の上にいると、男が近づいてきた。フリージャーナリストの豊田直巳(55)だった。和代が、自宅の線量を測ってほしいと頼んだ。豊田は敷地のあちこちを測りはじめた。

 玄関の雨どいの下を測ったとき、豊田が「ワッ、これは大変だ!」と叫んで立ち上がった。

 ためらう豊田に、和代は「本当のこといってください」と頼んだ。

 「2時間いたら、1ミリ吸います」と豊田は答えた。

 豊田によると、そのときの線量は毎時500マイクロシーベルトを超えていた。2時間いただけで年間許容量の1ミリシーベルトを超える値だ。

 具体的な数字を初めて聞かされ、大変なことだと初めて自覚した。和代はあわてて身支度し、豊田に見送られて家を飛び出した。

 数日後、ネコを引き取りに再び家に帰った。警視庁のパトカーが敷地に入ってきた。

 「ここって高かったんですね」と30代ぐらいの警察官に聞いてみた。

 「そうなんです、高いですよ。でも政府から止められていていえなかったんです」

 警察官はそう答えた。

 和代はびっくりした。ジープの自衛官がいったことは何だったのか。

 「もし自分の家族だったら、同じことがいえますか。真っ先に逃がすでしょう。私らのことは、しょせんひとごとなんですかね」

 7月、中国の高速鉄道事故で証拠隠しが発覚した。日本のメディアは中国政府の対応を厳しく批判した。和代は腹が立ってくる。

 「日本だって同じじゃないの」(前田基行)
 
*2011.10.13朝刊

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防護服の男(11) あの2人のおかげで

菅野みずえの家に避難した25人は、「白い防護服の男」の情報とみずえの判断でそれぞれ再避難し、危険な状況から逃げることができた。

 大量の放射性物質が飛び散り、住民が被曝(ひばく)するかもしれない緊急の時期だった。しかし政府も東京電力も、それを住民に教えなかった。

 しかし25人は、混乱を起こすこともなく、冷静に動いている。

 みずえは今、福島市に近い桑折町(こおりまち)の仮設住宅で暮らす。

 「ほら、見てください」。みずえは空き地で遊ぶ子どもたちを指さす。

 「あんな小さな子が、避難生活の苦労を背負ってこれから生きていくんですよ。もし被曝していたら……」

 それにしても、あの白い防護服の男たちは一体だれだったのか。みずえは今も考える。

 そのころ福島県内は、文部科学省や福島県、日本原子力研究開発機構、東京電力、東北電力などの計測車が走り回っていた。

 例えば新潟県からの応援車もきていた。3月12日夕のちょうどその時刻、津島地区を通っている。

 新潟県の職員2人は、原発事故対応の支援のため、ワゴン車に乗って福島県に入った。114号を浪江町に進み、津島地区を通った。午後4時ごろ、その先の川房地区で警官に止められて引き返している。

 その職員に話を聞くことができた。ただ、内部被曝してしまったので、名前が出るのは困るとのことだった。

 職員によると、当時、測定器は激しく鳴りっぱなしで、焦っていた。

 津島地区を通ったとき、車がたくさん止まっていたので避難所だと思った。

 「防護服? いいえ、着ていませんでした。車を降りてもいません」

 14日未明には、放射線医学総合研究所のモニタリングカーが津島地区を通過している。まだ大勢の避難民がいたころだ。

 車には測定器などを積み込んでいたが、「資材を運ぶのが目的だった。放射線量は測っていない」(広報課)という。

 みずえが会った2人は、そうした計測チームの一つだった可能性が高い。

 「あの2人の警告のおかげで逃げられた。それをなぜ国や東京電力は組織としてしてくれなかったのだろうか。もっと多くの人が逃げることができたのに」(前田基行)

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防護服の男(12)区長は逃げなかった

菅野家の25人が再避難した3月13日、下津島区長、今野秀則(64)は、家を訪ねてきた菅野みずえから白い防護服の男の話を聞かされた。

 しかし、逃げなかった。確かな情報もなしに右往左往すべきではないと思った。なにより、区長として先に逃げるわけにいかなかった。

 3月15日の午前10時。津島支所の対策本部に呼ばれ、支所が二本松市に避難すると告げられた。

 なぜだ。原発から30キロ離れた津島は安全のはずではなかったのか。しばらく事態がのみ込めなかった。

 そのとき、テレビが政府の会見を放映していた。20~30キロに屋内退避の指示。職員が食い入るように画面を見つめている。これなのか。

 午後から下津島の50軒を1人で回り、避難を呼びかけた。

 大半の家はカーテンが引かれ、避難していたが、10軒が残っていた。避難を促したが、拒まれた。3軒は「牛がいるので避難できねえ」といった。寝たきりの老人もいた。

 今野は妻(55)と長女(23)を先に逃がし、そのまま津島に残る。

 大勢の避難民でごった返した地区から物音が消えた。夜、雨が雪に変わり、路面は真っ白になった。静かだった。

 昨日はたまたま留守だった家があるかもしれない。16日、もう一度、50軒を回った。いったん避難した5軒が戻ってきていた。

 妻が車いすで、避難所ではトイレに行くのも大変だから帰ってきた――。1軒で、老夫婦がそう答えた。夫は「いいんだよ放射能なんか。もう年だし、ここで生活する」といった。今野は、車いすでも不自由しない別の施設をさがして伝えた。

 「地域が消滅してしまう」

 無人となった地区を車で走りながら、今野は悔しかった。

 今野は元県庁職員で、今後は地元の伝統芸能保存活動に力を入れるつもりだった。しかし、そんな老後の夢は消え去った。

 今野は町から測定器を借り、7月から毎月、地区の一軒一軒の放射線量を測り、その住人の避難先に郵送で知らせている。

 県や町からいわれたわけではない。防護服の男の話を聞いたとき、津島が高い線量だと知っていたら、もっと強く避難を呼びかけたのに……。そんな後悔があるからだ。

 ひと月前と比べ、どの家の軒先も雑草が生い茂っている。3年前に亡くなった父が大事に育てていた庭の植木も枯れた。(前田基行)

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防護服の男(13)自宅裏は荒れはてた

菅野みずえ一家が暮らす桑折町(こおりまち)の仮設住宅は、浪江町からは40キロの距離だ。そこから月に1回、浪江町の自宅に通っている。

 国道114号から津島地区に向かう道に折れると、警察の検問所がある。パトカーからマスク姿の警察官が降りてきて、町が発行する通行証をチェックする。

 8月下旬、地区に入った。家並みは事故前と少しも変わらない。しかし、みずえがつけている線量計は鳴りっぱなしだ。毎時3マイクロシーベルトを超えると鳴るようにしてある。

 「東京電力から仮払金100万円をもらったけれど、そのうちの21万円がこの機械で消えてしまったですよ」

 自宅に着く。玄関前の地面に線量計を近づけると、46マイクロシーベルトにはね上がった。自宅裏の雨どいの下は170マイクロシーベルト。そこに6時間いるだけで、年間許容量の1ミリシーベルトを超えてしまう。

 みずえはもともと大阪の人間だ。2年前、浪江町出身の夫(60)が津島の実家を継ぐことになり、移り住んだ。ハウス農業を始めようと昨年、農業研修を受けた。古い農家を壊し、自宅を新築した。

 大阪で居酒屋の店員をしていた長男の純一(27)も合流し、早く地域に溶け込みたいと、祭りのグループに入って太鼓を習い始めたばかりだ。しかし、もうこの土地には戻って来られないかもしれない。

 みずえは、東電と国にいいたいことがある。

 「だれもいない道を走ってごらんって。そうすれば、自分のしでかしたことの大きさを感じられるからって」

 みずえの自宅裏は草が背丈以上に伸び茂り、まるでジャングルだ。アシナガバチが玄関の戸に巣を作り、アブがぶんぶんと羽音を立てて飛び交う。近所中、ヒマワリの花だらけだ。セシウムを吸い上げるといわれ、みんなが植えたからだ。しかしそのヒマワリが枯れて土に戻ったら、同じことなのだ。

 みずえは大阪の高槻市で暮らしていたとき、阪神大震災を経験した。そのときはボランティアで仮設住宅を回り、お年寄りの健康相談をしていた。

 「まさか、自分が仮設住宅に入ることになるとは夢にも思いませんでした」(前田基行)



またつづく


テーマ : 「原発」は本当に必要なのか
ジャンル : 政治・経済

ネットに落ちてたわな、「罠」 その1

■防護服の男(1)

 福島県浪江町の津島地区。東京電力福島第一原発から約30キロ北西の山あいにある。

 原発事故から一夜明けた3月12日、原発10キロ圏内の海沿いの地域から、1万人の人たちが津島地区に逃れてきた。小中学校や公民館、寺だけでは足りず、人々は民家にも泊めてもらった。

 菅野(かんの)みずえ(59)の家にも朝から次々と人がやってきて、夜には25人になった。多くが親戚や知人だったが、見知らぬ人もいた。

 築180年の古民家を壊して新築した家だ。門構えが立派で、敷地は広い。20畳の大部屋もある。避難者を受け入れるにはちょうどよかった。門の中は人々の車でいっぱいになった。

 「原発で何が起きたのか知らないが、ここまで来れば大丈夫だろう」。人々はとりあえずほっとした表情だった。

 みずえは2台の圧力鍋で米を7合ずつ炊き、晩飯は握り飯と豚汁だった。着の身着のままの避難者たちは大部屋に集まり、握り飯にかぶりついた。

 夕食の後、人々は自己紹介しあい、共同生活のルールを決めた。

 一、便器が詰まるのを避けるため、トイレットペーパーは横の段ボール箱に捨てる。

 一、炊事や配膳はみんなで手伝う。

 一、お互い遠慮するのはやめよう……。

 人々は菅野家の2部屋に分かれて寝ることになった。みずえは家にあるだけの布団を出した。

 そのころ、外に出たみずえは、家の前に白いワゴン車が止まっていることに気づいた。中には白の防護服を着た男が2人乗っており、みずえに向かって何か叫んだ。しかしよく聞き取れない。

 「何? どうしたの?」

 みずえが尋ねた。

 「なんでこんな所にいるんだ! 頼む、逃げてくれ」

 みずえはびっくりした。

 「逃げろといっても……、ここは避難所ですから」

 車の2人がおりてきた。2人ともガスマスクを着けていた。

 「放射性物質が拡散しているんだ」。真剣な物言いで、切迫した雰囲気だ。

 家の前の道路は国道114号で、避難所に入りきれない人たちの車がびっしりと停車している。2人の男は、車から外に出た人たちにも「早く車の中に戻れ」と叫んでいた。

 2人の男は、そのまま福島市方面に走り去った。役場の支所に行くでもなく、掲示板に警告を張り出すでもなかった。

 政府は10キロ圏外は安全だと言っていた。なのになぜ、あの2人は防護服を着て、ガスマスクまでしていたのだろう。だいたいあの人たちは誰なのか。

 みずえは疑問に思ったが、とにかく急いで家に戻り、避難者たちにそれを伝えた。(前田基行)

2011.10.3朝日新聞朝刊
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■防護服の男(2)
 3月12日夕、菅野みずえは自宅に駆け戻り、防護服の男たちの話を避難者に伝えた。議論が始まった。

 「本当に危険なら町や警察から連絡があるはずだ。様子をみよう」。やっと落ち着いたばかりで、みんな動きたくなかった。

 しかし深夜、事態が急変する。数台のバスが、避難所になっている公民館に入って行った。それに避難者の1人が気付く。バスの運転手は「避難者を移動するのだ」といったという。

 当時、浪江町は、逃げ遅れた20キロ圏内の町民たちを津島地区までバスでピストン輸送していた。しかし、みずえはそんなことは知らず、やはりここは危ないのではないかと思った。みずえは寝ていた人々を起こし、再び議論となった。

 多くは動きたがらなかった。しかし、一人の女性が「みんながいたら、菅野さん家族が逃げられないでしょう」といった。それで決まった。

 「車のガソリンが尽きるところまで避難しよう」

 深夜0時すぎ、若い夫婦2組が出発した。2月に生まれたばかりの乳児や、小さい子どもがいた。

 夫婦は最初、「こんな深夜に山道を逃げるのはいやだ」と渋ったが、「子どもだけでも逃がしなさい」とみずえがいい、握り飯を持たせた。

 翌13日の朝食後、再び話し合った。前夜「逃げない」といっていた若い夫婦連れが「子どものために逃げます」といった。年配の女性が、夫婦に自分の車を貸した。

 「私は1人だから、避難所でバスに乗るわ」

 夕方までには、25人全員が福島市や郡山市、南相馬市などへそれぞれ再避難した。

 みずえは近くの家で避難している人たちにも、防護服の男たちのことを伝えた。1人が笑って答えた。

 「おれは東電で働いていた。おれらのつくった原発がそんなに危ないわけねえべ」

 男は原発事故からではなく、津波から逃れてきたのだ。みずえはこれで気が抜けた。みずえと長男の純一(27)は避難を取りやめた。

 純一は避難所の活性化センターの炊き出し係で、握り飯をつくっていた。

 「おれだけ逃げるわけにいかないよ」。このとき津島地区から10キロほどの地点で、30マイクロシーベルト用測定器の針が振り切れていた。(前田基行)

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防護服の男(3)警察官、なぜあんな格好を

3月13日に菅野家の25人が出て行った後も、津島地区の避難者は大半が残っていた。

 避難指示は12日午前5時44分に10キロ圏内に拡大。1号機が水素爆発した後、午後6時25分に20キロ圏内に広がった。

 しかし官房長官の枝野幸男は12日夜の記者会見で、「放射性物質が大量に漏れ出すものではない。20キロ圏外の地域の皆さんに影響を与えることにはならない」と語った。

 要するに、たいしたことはないが念のため避難してくれ、という趣旨だ。人々は30キロの津島地区は安全だと信じていた。

 東電の社員が12日と13日に浪江町の津島支所を状況報告に訪れた。彼らは防護服ではなかった。「ここは危ない」ともいっていない。菅野みずえが会った男たちの様子とは大きく違っていた。

 役場職員も区長も、みずえの会った防護服の男を見ていない。しかし、みずえは見聞きしたことをしっかりメモに書きとめていた。

 15日早朝、前日の3号機に続いて、2号機で衝撃音がし、4号機が爆発した。政府は初めて20~30キロ圏内の「屋内退避」を要請する。

 津島地区の住民が避難したのはそのころだった。町長の馬場有らが14日の3号機の爆発をテレビで知り、隣の二本松市に15日から自主避難することを決めたのだ。

 福島第一原発の正門では、15日午前9時に毎時1万1930マイクロシーベルトの高い放射線量が観測された。それでも枝野の発言は楽観的だった。

 「放射性物質の濃度は20キロを越える地点では相当程度薄まる。人体への影響が小さいか、あるいはない程度になっている」

 「1号機、2号機、3号機とも今のところ順調に注水が進み、冷却の効果が出ている」

 原子炉が12日のうちにメルトダウンを起こしていたことが国民に知らされるのは、後になってからだ。

 12日朝、浪江町で交通整理などにあたる警官が、防護服を着用した。

 「警官はなぜあんな格好をしているのか」

 住民は不安を抱いた。浪江町議会議長、吉田数博(65)は津島地区の警察駐在所を訪れ、「不安を与えるので防護服は着ないでほしい」と要請した。

 吉田はいう。

 「知らないのはわれわれだけだったんだ」(前田基行)

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防護服の男:4 殺人罪じゃないか

 SPEEDI(スピーディ)というコンピューター・シミュレーションがある。政府が130億円を投じてつくっているシステムだ。放射線量、地形、天候、風向きなどを入力すると、漏れた放射性物質がどこに流れるかをたちまち割り出す。

 3月12日、1号機で水素爆発が起こる2時間前、文部科学省所管の原子力安全技術センターがそのシミュレーションを実施した。

 放射性物質は津島地区の方向に飛散していた。しかし政府はそれを住民に告げなかった。

 SPEEDIの結果は福島県も知っていた。12日夜には、東京の原子力安全技術センターに電話して提供を求め、電子メールで受け取っていた。しかしそれが活用されることはなく、メールはいつの間にか削除され、受け取った記録さえもうやむやになった。

 3月15日に津島地区から避難した住民に、県からSPEEDIの結果が伝えられたのは、2カ月後の5月20日だった。県議会でこの事実が問題となったためだ。

 福島県の担当課長は5月20日、浪江町が役場機能を移していた二本松市の東和支所を釈明に訪れた。

 「これは殺人罪じゃないか」

 町長の馬場有は強く抗議した。

 馬場によると、県の担当課長は涙を流しながら「すみませんでした」といい、SPEEDIの結果を伝えなかったことを謝ったという。

 知らされなかったのはSPEEDIの情報だけではない。

 福島県は、事故翌日の3月12日早朝から、各地域の放射線量を計測している。

 同日午前9時、浪江町酒井地区で毎時15マイクロシーベルト、高瀬地区では14マイクロシーベルト。浪江町の2地点はほかの町と比べて異常に高い数値を示した。1号機水素爆発の6時間以上も前で、近くには大勢の避難民がいた。

 これらの数値は6月3日に経済産業省のHPに掲載された。しかし、HPにびっしり並ぶ情報の数字の中に埋もれ、その重大さは見逃された。

 8月末、浪江町の災害救援本部長、植田和夫にそれらの資料を見せると、植田は仰天した。

 「こんなの初めて見た。なぜ国や県は教えてくれなかったのだろう」

 菅野みずえはいう。

 「私たちは、国から見捨てられたということでしょうか」

 (前田基行)
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防護服の男(5) 私、死んじゃうの?

菅野みずえの家にいた25人の人々は、その後どこに向かったのだろう。

 その一人、谷田(やつだ)みさ子(62)はいま、愛知県春日井市の市営住宅で避難生活を送る。

 みずえの遠い親戚だ。同じ浪江町の小野田地区に家がある。みずえの家からは約20キロ海寄りで、福島第一原発から10キロ以内の距離にある。

 3月11日午後、自宅で地震に襲われた。

 翌12日早朝、隣の双葉町に住む次女一家が「ここは危ないから逃げるのよ」と駆け込んできた。朝9時、家を出た。

 みずえの家がある津島方向に向かう国道114号はすでに大渋滞。国道6号に出て北に進み、南相馬市小高区の長女宅に向かう。ここで1号機の水素爆発を知り、さらに全員で津島を目指した。

 みずえの家に着いたのは夕方6時を回っていた。他の避難者が炊き出しの握り飯を食べ終わったところだった。

 一日中走り回って疲れていたが、避難者の会議には出席した。共同生活ルールのうち、使用済みトイレットペーパーを段ボール箱に捨てるよう提案したのは、みさ子だった。以前メキシコ旅行をしたときの経験を思い出したからだ。

 しかし、ほっとしたのもつかの間、白い防護服の男たちの警告をみずえから聞かされた。

 生後1カ月の赤ちゃんを抱えた次女一家7人と、長女一家4人を、夜中に逃がした。翌13日夕、みさ子も発った。

 行くあてはなかったが、「少しでも遠くに」と郡山市を目指す。

 郡山市では、避難して来る人たちの放射能測定をしていた。みさ子に測定器が向けられると、針が大きく振れた。「私、死んじゃうの?」と測定係に叫んだ。

 その晩は車で寝た。15日朝、地震当時は相馬市にいた夫(54)と携帯電話でようやく連絡が取れた。会津若松市で合流し、新潟県経由で、22日、姉が暮らす春日井市に逃れた。

 国や東京電力から的確な指示が一切ないまま、12日間の逃避行だった。

 「原発は安全」。これまで、そんな説明を何度も聞いていた。それを前提とした生活がすべて崩れた。

 しかし、原発のおかげで住民が恩恵を受けてきたのは事実なのだ。「原発だけ悪いなんて、私たちはいえないのよ」。みさ子はため息をつく。(前田基行)

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防護服の男(6)ハエがたかっていた

谷田(やつだ)みさ子(62)は浪江町で生まれ育った。中学生のころ、東京電力が福島第一原発づくりを始めた。

 高校卒業後、上京して就職したが、1年半で浪江町に戻った。そのあとは東電一色の生活だった。

 結婚し、3人の子を育てながら焼き鳥屋をやった。客は原発で働く作業員たちだった。

 その後は東電の社員寮に勤める。

 昨年の夏まで10年間働いた。食事をつくり、若い社員らに「やつだっち」と呼ばれて慕われた。女子寮には、女子サッカーのなでしこジャパンで活躍した鮫島彩選手らがいた。「みんないい子でかわいかったです」

 子供たちの手が離れてからは、東電の管理職の寮に住み込んだ。

 思い出すのは選挙の時の東電の力の入れようだ。

 町長選挙や県議会議員選挙があると、寮の食堂が東電幹部らの待機場所となった。支援候補が当選すると、幹部はそろってお祝いに駆けつけた。「電力会社は政治とがっちりつながっているんだな」と感心した。

 これまでの人生の半分以上を東電とかかわってきた。にもかかわらず、今度の事故では東電から何の情報もなかった。

 愛知県春日井市に避難してからはいっそう情報が入らなくなった。福島県の地元紙を郵送してもらい、隅から隅まで目を通す。

 これから生活はどうなるのか。補償はどうなるのか。不安だらけだ。

 6月、浪江町の家に一時帰宅した。冷凍庫は地震でひっくり返ったままで、腐った食材にハエがたかっていた。

 8月末、自分の車を引き取りに再び福島に戻った。夫が車を運転し、春日井市から高速道路で8時間かかった。広野町の体育館で防護服に着替え、用意されたバスに乗り込んだ。

 バスが止まると、首輪をつけた2匹の犬が足元に寄ってきた。途中、道ばたで猫が2匹死んでいるのを見た。

 「一歩間違えたら、私たちがああなっていたのかな」

 事故後、長女は郡山に、次女は新潟に、家族は散り散りになっている。

 9月、福島県の仮設住宅に入居を申し込んだ。

 「福島は何十年も暮らした土地ですから。戻りたい」。涙がこぼれた。(前田基行)


つづく

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福島県県民見殺し事件

2011年3月12日午後3時36分 1号機爆発

それより前の福島県が調べたデータ、文科省ではない。

福島県 環境放射能測定結果・検査結果関連情報
福島県犯罪3
http://www.pref.fukushima.jp/j/2min_oono0312.pdf

福島県犯罪
http://www.meti.go.jp/press/2011/06/20110603019/20110603019-2.pdf


福島県は、1号機爆発前の3月12日午前9:00までには、放射能漏れを認知していた、それを住民に知らせず被曝させた大犯罪者である。すべてはここから始まった。


福島県犯罪4
http://www.pref.fukushima.jp/j/7houbu0311-0331.pdf

夕方でもはっきりしていた。


6月3日の保安院発表で、初めて明らかにされた、でもわしゃ知らんかった。こんなのは

福島県犯罪2
http://www.meti.go.jp/press/2011/06/20110603019/20110603019-3.pdf


なんじゃあ、こりゃあ、福島県は、佐藤雄平は、知ってて住民を避難させなかったのか、SPEEDIが届かなかったとか言い訳しよって、てっきりおれは届けなかった安全委員会、保安院、政府が悪いと思っていたら、こんな話かよ。

佐藤雄平、福島県原子力関係者は、いますぐ逮捕せよ、おりにぶちこめ。



朝日新聞 〈プロメテウスの罠〉頼む、逃げてくれ
転載

 福島県浪江町の津島地区。東京電力福島第一原発から約30キロ北西の山あいにある。

 原発事故から一夜明けた3月12日、原発10キロ圏内の海沿いの地域から、1万人の人たちが津島地区に逃れてきた。小中学校や公民館、寺だけでは足りず、人々は民家にも泊めてもらった。

夕食の後、人々は自己紹介しあい、共同生活のルールを決めた。

そのころ、外に出たみずえは、家の前に白いワゴン車が止まっていることに気づいた。中には白の防護服を着た男が2人乗っており、みずえに向かって何か叫んだ。しかしよく聞き取れない。

 「何? どうしたの?」

 みずえが尋ねた。

 「なんでこんな所にいるんだ! 頼む、逃げてくれ」


これは1号機爆発で逃げてきた連中だろうが、朝から浪江町に避難民が逃げてきたというところが悲劇だ、福島県が教えてあげていたら。


東電のデータはどうなっていたんだ?

福島県犯罪5
http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu11_j/images/110528d.pdf


3月12日の午前4:00にはもう漏れ出していたのだ、ああそれで午前5:44に3Kmからさらに10Kmに避難エリア拡大したのか、それで福島県はモニタリングカーで午前8:00から調べ始めたのか、そして見つけた浪江町で、そしてしらんぷりして、今に至る悪魔の地獄への県民道連れ。



阿武隈(原発30km圏内生活)裏日記 福島県は県民を見殺しにした


「プロメテウスの罠」は読んだのだが、他の事件が多すぎて全然気がつかなかった、さすがに現地で鋭い観察のたくきさんだ。

本も買ったよ、読んだよ、すばらしい本だ、永遠の記録の本だ。

佐藤雄平ほか福島県原子力関係者は、山下悪魔と永遠にフクイチに埋めてしまえ、核のゴミと共に地下深く、地獄の底まで。


裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす
(2011/10/14)
たくき よしみつ

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SPEEDIの隠蔽事件

原子力安全技術センター SPEEDI

SPEEDI.jpg

SPEEDI 2

SPEEDI 3

EX-SKF-JP 【記録】 3月11日夜、保安院は詳細なSPEEDIシミュレーションデータを基に避難区域を設定する直前だった
転載

以下、今の時点で最も事実に近いと思われる経過はこうだ。

3月11日午後7時過ぎ。官邸に原子力災害対策本部ができた時、原発から5キロの場所に現地対策本部が作られた。原子力防災マニュアルでは現地本部が対策の中心だ。SPEEDIを使って住民の避難区域案を作るのもここの役割だった。

しかし現地本部は地震の揺れで通信回線が途絶していた。要員の集まりも悪い。とうてい、避難区域を検討できる状態ではなかった。

現地本部が機能しない場合、避難区域を考えるのはどこか。意図しないまま、保安院と官邸で重大な勘違いが生じていた。

東京・霞が関。経済産業省別館3階にある保安院の緊急時対応センター(ERC)は、避難区域の案を作るのは自分たちしかいないと確信していた。官邸に置かれた対策本部の事務局は保安院であり、その中核がERCだからだ。

放射線班が避難区域案作りを担当し、原子力安全技術センターに注文してSPEEDIの予測図をはじきだそうとした。住民の避難には放射性物質の拡散予測が欠かせない。班員らは必死だった。

一方、官邸5階に陣取る対策本部の中枢は違う考えを持っていた。現地が機能しなくなった以上、自分たちが避難区域を決めるほかない。官邸中枢はERCの存在を認識できないほどあせり、混乱していた。

時刻は11日の夜9時前後。ERCと官邸で、別々に避難案づくりが進んでいた。(=続く)

研究者の辞表(15)官邸独断 室内は騒然

事実に近いと思われることをさらに続ける。(=上地兼太郎朝日新聞記者)

3月11日午後9時12分、経済産業省別館にある原子力安全・保安院のERC(緊急時対応センター)は、独自に注文した1回目のSPEEDI(スピーディ)予測図を受け取った。

SPEEDIは放射性物質の拡散を最大79時間先まで予測できる。その能力をフルに使って将来の拡散範囲を予想し、危険地域にいる住民を避難させなければならない。

放出された放射性物質は風に流されるため同心円状には広がらないのが常識だ。何時間後、何処(どこ)に汚染が広がるか。ERCはSPEEDIの予測を続けて汚染区域を見極めようとした。ところが・・・。

その矢先の午後9時23分。原子力災害対策本部長の管直人は同心円状の避難指示を発する。原発から3キロ圏内の住民は避難、10キロ圏内の住民に屋内退避、という内容だった。

対策本部の事務局は保安院が担当し、その中核はERCだ。そこには全く連絡が無いまま、いきなり結論だけが下(お)りてきた。官邸中枢が独自の判断で決めたのだ。

避難区域の案を作っている最中に、一体どうしたことか。ERCは驚き、室内は騒然とした。官邸中枢が避難区域を決めてしまった以上、自分たちに役割はない。そう即断し、この段階でERCは避難区域案づくりをやめてしまう。

官邸中枢が発した避難指示は12日午前5時44分に原発から10キロ、同日午後6時25分に20キロと広がっていった。いずれも同心円状だった。

ERCは16日までに45回もSPEEDIの計算を繰り返すが、それは避難区域を決めるためではなく、官邸中枢が決めた避難区域について検証するためだった。

同心円状に広がらないのは原子力防災の常識なのに、同心円状に避難指示が出る。そのおかしさを感じながらERCはそれを追認した。発せられた避難指示を否定する根拠がない以上、追認が妥当と考えた。

その後、政府はこう強調した。放出された放射能量が不明だったのでSPEEDI予測はそもそも役に立たなかったのだ、と。ERCがSPEEDIを使って避難区域案を作ろうとしていたことは伏せられた。

同心円状の避難指示で最も矛盾が生じたのは、20キロ圏外にある放射線量の高い地域だった。SPEEDIの予測図では20キロ圏をはるかに超え、北西方向に高線量地域が伸びていた。

このほかにももう一つ、3月11日から東電が独自に出していたシミュレーションもありました。このシミュレーションは経済産業大臣、福島県知事と、大熊町、双葉町の町長にファックスされていました。

英語の使い古した言い回し(Cliche)では、

... and the rest is history...

とでも言うのでしょうが、まったく残念な歴史となりました。管首相は嘘をついたんですね。SPEEDIに関して。罪のない嘘、White Lieでは済まないでしょうね、これは。

日本の皆さん、もう起きてしまったことはしょうがない、などとはゆめゆめお考えにならず、ここは何としてでも責任を追及してください。また同じことが、別の事故でも必ず起こります。



福島原発事故に関する爆発直前直後の避難勧告発言まとめ

2011年3月15日
@tokaiama 東海アマ管理人

関東住人も子供達を逃がす用意を! 西に逃げるのが本筋だが関越から日本海方面、
中央から東海方面がよい。東海道は勧めない。筆者が使っているルートは、中央道から
甲府竜王で降りて20号から諏訪、杖突峠から高遠、伊那から権兵衛トンネル。
19号から周辺へが穴場

たぶん天皇はすでに移動、特権階級が脱出ラッシュだろう。みな東海・京都方面だろう。
庶民は安全と吹聴され取り残されるのが普通だ。


100Km.jpg


結論

SPEEDIが動き出す前に、季節風の風上に向かって100Km以上逃げる。




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福島県中通りでコメをつくった農家は、サリンを製造したオウム信者と同じだ。

早川由紀夫
転載

福島県中通りでコメをつくった農家は、サリンを製造したオウム信者と同じだ。

「孫に食べさせられないようなコメをつくるなんて、農家としての矜持(きょうじ)はないのか。食べられないことがわかっているコメを補償金目当てでつくるのはカネの亡者がすることだ。そして補償金がもらえるあても確かではない。たんなるうわさにすぎない。」7月3日



セシウム米、戸惑う農家「安全と聞いたばかり」
転載

「田植えの前に、県が『コメを作るな』と指示していれば、今年は作っていなかったのに……。農家として作ったコメを出荷できないのが一番つらい」と話した。


流通業者は

宮城米混ぜ、栃木産と表示
転載

発表によると、同社は少なくとも今年7月25日と8月16日に精米した計627キロについて、栃木県産コシヒカリと宮城県産ササニシキを混ぜていたが、「単一原料米」「産地 栃木県」「品種 コシヒカリ」と表示し、県内で一般消費者向けに販売していた。


漁師はどうしているか?

いわき市漁協 12月も自粛
2011年11月18日 09時17分配信

いわき市漁協は17日、市内の県水産会館で会合を開き、11月に続き12月の漁再開と試験操業の見送りを申し合わせた。

モニタリングで魚介類や海底土壌などから放射性物質が検出され、仲買人を交えた販売ルートの確立が難しいことなどを踏まえて決めた。

28日に県水産会館で開かれる県漁協組合長会で報告する。



いわき市の漁師はえらい、信用できる、しかしこんな消費者にとっていいニュースが消えている、どこにも新聞記事が見つけられない、福島のテレビニュースのキャッシュがあったのみ。隠蔽がひどい。

もっと偉い漁師





早川過激発言が真実で、批判している奴らがアホのバカだった、汚染地で作れば作物が汚染されることは、あたりまえの自然現象だ。

自然を忘れた百姓は、この漁師を見習え。


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必死に内部被曝を否定したい御用たち、「第4回低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」

放影研、89年に調査中止 内部被ばく実態、20年不明
転載 信濃毎日新聞

日米両政府が運営し、原爆被爆者の健康を調査する「放射線影響研究所」(放影研、広島市・長崎市)が、原爆投下後に高い残留放射線が見つかった長崎市・西山地区の住民から、セシウム検出など内部被ばくの影響を確認し、研究者らが調査継続を主張してきたにもかかわらず、1989年で健康調査を打ち切っていたことが26日、関係者への取材で分かった。
 45年から続く貴重な内部被ばくの継続調査だったが、打ち切りによって健康への影響や実態の解明は20年以上、進んでいない状態。放影研は調査終了の理由について「健康被害が確認されず、当初の研究目的を達成したため」と説明。



日本弁護士連合会 「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」の抜本的見直しを求める会長声明
転載

ところが、本件WGの構成員には、広島・長崎の原爆被爆者の健康影響の調査研究に携わる研究者が多く、低線量被ばくの健康影響について、これに否定的な見解に立つ者が多数を占めている。しかし、原爆症の認定をめぐっては、これらの研究者らが関与して策定された審査方針に基づく判断を覆した裁判例も少なくない。例えば、広島地裁2006年(平成18年)8月4日判決では、上記審査方針では認定されなかった41名もの原告全員について原爆症と認められ、その中には、被爆後13日目(8月19日)後以降に広島市内に入って医療活動に従事して後年がんを発症した低線量被ばく者も含まれていた。度重なる国敗訴の判決を受けて、2008年(平成20年)3月には審査方針が改定されたが、その後も国は敗訴を続け、東京高裁2009年(平成21年)5月28日判決は「審査の方針(13年方針)は原爆症認定の判断基準として相当とはいえない」とも判示した。同年6月には審査方針を再び改定しているが、その方針でも救済されない被爆者についても原爆症と認める判決が相次いでいる。このことは、本件WGに参集した委員が含まれた審査会で策定された方針では、低線量被ばくのリスクを十分に評価していない可能性があることを示している。

本件WGの人選は、顧問会議の座長が一方的に指名できることになっており、本件WGの会合もマスコミ関係者を除き、一般市民は傍聴もできず(第2回からインターネット中継はされている。)、議事録も公表されていない(11月24日現在)。

事故後の政府の対応は、既に国民の間に抜きがたい不信感を形成しており、今回のような方法を採ること自体が更なる不信感を招くことは明白である。


低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ
御用連中

遠藤 啓吾 京都医療科学大学学長
(社)日本医学放射線学会副理事長
神谷 研二 福島県立医科大学副学長
広島大学原爆放射線医科学研究所長
児玉 和紀 (財)放射線影響研究所主席研究員
原子放射線による影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)国内対応委員会委員長
近藤 駿介 原子力委員会委員長
東京大学名誉教授
酒井 一夫 (独)放射線医学総合研究所 放射線防護研究センター長
東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻客員教授
高橋 知之 薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会放射性物質対策部会委員
京都大学准教授
長瀧 重信 長崎大学名誉教授
(共同主査) 元(財)放射線影響研究所理事長
丹羽 太貫 京都大学名誉教授
前川 和彦 東京大学名誉教授
(共同主査) (独)放射線医学総合研究所 緊急被ばくネットワーク会議委員長


以上の前提知識を持って、病理学的最新人ゲノムの先端研究の児玉先生のわかりやすい前知識





以上を良く知っていないと、御用にだまされるぞ。おれは現在ゲノム科学の最先端の児玉先生の内部被曝の話を信じる。

丹羽という御用が水俣病の時と同じように、必死に児玉にかみついてる。すべての御用が児玉たたき。

終に、児玉が大爆発、徹底して怒って、言いたい放題、原子力安全委員会をこきおろし、放医研にケンカを売り、スピーディ隠しを怒りの批判。

ここが今の日本の最先端の議論だ、じっくり聞いて、勉強しておけ、これを知らずして「内部被曝問題」を語るな。


111125第4回低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ



水俣の悲劇をくりかえすな

線量にすりかえる御用の話にだまされるな、臓器にとりついて死ぬまで細胞を殺す被曝を忘れるな。

ここで御用に押し切られたら、内部被曝の危険が隠蔽されてしまうぞ、バカやろう。




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子供のペットにおすすめ

カナリア


カナリア Wiki
転載
毒ガス検知
いわゆる炭鉱のカナリアは、炭鉱においてしばしば発生するメタンや一酸化炭素といった窒息ガスや毒ガス早期発見のための警報として使用された。本種はつねにさえずっているので、異常発生に先駆けまずは鳴き声が止む。つまり危険の察知を目と耳で確認できる所が重宝され、毒ガス検知に用いられた。

具体的には、新しい斜坑の底にまず3羽以上のカナリア(別種の鳥を用いることもあった)の入ったカゴが置かれ、そのうち1羽でも異常な行動が見られたなら、坑夫たちはその斜坑に危険が発生したと察知していた。イギリスの炭鉱ではこうした方法による危険察知システムが1987年まで採用されていた。[6]

鉱山以外でも、戦場や犯罪捜査の現場で使われる事がある。日本でも1995年の地下鉄サリン事件を受け、山梨県上九一色村のオウム真理教施設に対する強制捜査の際、捜査員が携行している様子が報じられ、こうした役割が知られるようになった。


小鳥なら飼いやすい、外部被ばくの検知器にもなるし、緊急避難でも一緒に逃げられる。






うさぎは食べないけど、ブタは成長したら食べるか? 生き物の命を考えさせる教育にもなる。

大きくなって手に余るペットはやめておこう。


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FRYING DUTCHMAN 「さあ立ち上がれ、声をあげろ、原発絶対反対」



バカやろう、バカやろう、バカやろう、バカやろう

さあ、たちあがれ

声をあげろ

原発絶対反対、原発絶対反対、原発絶対反対

ただちに撤廃せよ



原発はいますぐ廃止せよ

Frying Dutchman

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武田先生と柏市民 「除染か、避難か、その他」

あいかわらず面白い武田先生と岩上。

しかし、武田先生は的確にはっきりと今の現状に対する対策を主張している。

お笑いコンビだが、柏市民の真剣さに驚かされる、市民の危機意識がますます高まっている。





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自滅する文科省 「放射線量低く見せろ」要求応じず解約になった「アルファ通信」

文科省「放射線量低く見せろ」要求応じず解約になったオンライン線量計 J-CAST ニュース
転載
ここで週刊誌の話題から外れることをお許し頂きたい。これを読んでいただいている読者の中には、11月19日(土曜日)の朝刊で以下のような記事を目にした方もいるのではないだろうか。

「文部科学省は18日、福島県内の学校や公園で放射線量を計測する『オンライン線量計』を発注した業者との契約を解除したと発表した。測定精度が低く、結果の送信ができないなどのトラブルで納期が守られなかったためと説明している」(朝日新聞より)


東京新聞などは1面トップだった。この業者というのは東京都中野区にある「アルファ通信」(豊田勝則社長)で、社長は私もよく知っている。

簡単に経緯を書くと、福島の学校などに600台の線量計を設置する工事を「アルファ通信」が落札し、工事を始めたのが9月からだった。線量計を入れるカプセルの仕様が突然変更されたり、台風などもあったことで10月中旬の納期は双方了解して11月に延期した。次の納期は11月14日。600台のうち480台までは設置が完了したが、100台と少しが残ったのは事実である。文科省の契約解除の理由は納期遅れだけである。

しかし、文科省は会見で、記事にもあるように「測定精度が低く」てと計数管にあたかも欠陥があったように話しているが、これは事実とは異なる。いちばん文科省が問題にしたのは、「アルファ通信」の使用している計数管がアメリカ製であることだった。これはアメリで校正(検定のようなもの)をした国際標準の計数管である。

文科省がモニタリングポストなどで使っているのは、国内の日立系の会社の製品である。いまでは知られるようになってきたが、文科省が発表している放射線量は、モニタリングポストを高いところに据えたりして、市町村が発表している数値より低い。

子どもの背丈のところを測らないのでは意味がないという批判が巻き起こり、今回は地上50センチに設置することになった。しかし数値がモニタリングポストより高く出ることに怯えた文科省は、「アルファ通信」の線量計の数値が低く出るよう仕様変更することを強硬に要求してきたのである。

聞くところ、期限ギリギリになっても「アルファ通信」の技術者を丸一日缶詰にして、アメリカ標準ではなくここは日本なのだから日本標準にせよとの一点張りで、聞く耳を持たず。その結果、設置の仕事にも影響が出てしまったというのだ。

このことが指し示している最大の問題点は、文科省が発表している放射能の線量は人為的に操作され、低く出るようにせよとメーカー側に要求し、それを飲まなければ切るという理不尽とも思えるやり方をしていることである。「アルファ通信」側はこうした問題を含めて、記者会見を開く意向である。また、こうした官僚たちのいい分を、少しも検証することなく垂れ流す新聞にも猛省を促すつもりである。


文科省よ、「おぬしもわるじゃのう」 「おぬしもバカじゃのう」

アルファ線とケンカして勝てるわけがないじゃないか、ボケ、放射能を甘く見るんじゃないぞ。

すでに内部被曝でアルファ線にやられて放射脳になったのか?文科省よ、いよいよ脳障害が発現してきたか、こころの穢れたものから病気で倒れていく。

今後も次々発症していくであろう、早く身を清めよ、汚染水の滝に打たれよ、文科省よ。



線量計600台契約解除 文科省「精度低い」、業者反論 朝日新聞
転載
文部科学省は18日、福島県内の学校や公園で放射線量を計測する「オンライン線量計」を発注した業者との契約を解除したと発表した。測定精度が低く、結果の送信ができないなどのトラブルで納期が守られなかったためと説明している。

 この業者は東京都中野区の「アルファ通信」(豊田勝則社長)。朝日新聞の取材に「納入が遅れたのは文科省から大幅な仕様変更を求められたため。訴訟も検討する」と反論している。

 文科省によると、来年2月までに線量計を計2700台配備し、省のホームページでリアルタイムの測定結果を公表する計画。7月に最初の600台分の競争入札を実施し、参加5社のうち最安値だったアルファ社と約3億7千万円で契約した。

 しかし、同社は測定結果を携帯電話の基地局に送信できないトラブルなどを理由に納期を2度延長。文科省職員が立ち会って3台の性能試験をしたところ、いずれも線量が実際より4割低く表示された。契約上の測定誤差は「±20%以内」で、納期から約1カ月遅れの11月14日になっても解決のめどが立たないため、契約を解除したという。

 文科省は契約金を支払っておらず、アルファ社に違約金約3700万円を18日請求した。今後、別業者との契約を進める。

 オンライン線量計は太陽光パネルの電力で作動し、地上50センチまたは1メートルの線量を測定して10分ごとに送信する機器。東京電力福島第一原発の事故を受け、文科省は住民の安全、安心をはかるためとして、今年度第1次補正予算で600台分約8億6千万円、2次補正で2100台分約17億円を計上した。


朝日新聞は業者が悪いように書いてるじゃないか、数値が低く出るなら文科省が喜ぶはずが、文科省は厳正な測定を望んでいるみたいな書き方じゃないか、文科省を正義の味方に仕立てようとしたのか、朝日新聞よ。

最初この記事を見たときは、ボロな機械の業者に頼む文科省が悪い、だいたいアルファ通信とか名前が悪いわと単純に思っていて、文科省の測定は厳密だなと思わせられてしまっていた。

朝日は文科省の肩を持っているのか? おまえも汚染水をかぶって身を清めてこい、朝日はインチキ、朝インチキめ。



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自滅するフクシマ 「新たに5農家のコメから規制値超セシウム」 追記

米 安全宣言

佐藤雄平が苦労して、「セシウムの出ないサンプルを測れ」と命令して、筋書き通りの「安全宣言」。

そんなことも知ってか知らずか自家用米を測定に出した農家のおっさん、測定現場で隠蔽できずに大ニュース。

すべての米を測定せざるを得なくなり、全国民の読み通り、出るわでるわ、セシウム米。

この程度は、「水戸黄門」見てたら分かるわな、悪代官 佐藤雄平よ。


水戸黄門

大波セシウム

おぬしらも役者じゃのおおおお。




コメで新たに基準超え放射性物質 NHK
転載 11月25日 19時34分

福島市の大波地区で収穫されたコメから、国の暫定基準値を超える放射性セシウムが検出された問題で、福島県がこの地区のすべてのコメの緊急の調査を始めたところ、新たに5戸の農家のコメから国の暫定基準値を超える最大で1キログラム当たり1270ベクレルの放射性セシウムが検出されました。

福島市の大波地区の水田で収穫されたコメから国の暫定基準値を超える放射性セシウムが検出されたことを受けて、福島県は今月22日から、この地区の154戸の農家が生産した4752袋のすべてのコメについて緊急の調査を始めています。これまでに34戸の農家の864袋のコメの検査が終わり、このうち新たに5戸の農家の103袋から、国の暫定基準値の1キログラム当たり500ベクレルを超える放射性セシウムが相次いで検出されました。数値は、最大で1キログラム当たり1270ベクレルで、27袋のコメが1000ベクレルを超えているということです。福島県によりますと、5戸の農家は、いずれも最初に暫定基準値を超えたコメの農家から、1キロから2キロほどの距離にあるということです。大波地区のコメは、すでに出荷停止となっていることから、福島県では、市場には流通していないとしていて、残る120戸の農家のコメの検査を来月中旬までに終わらせたいとしています。福島県農林水産部の鈴木義仁部長は「とても残念な事態だ。現時点で、コメの安全性が大きく崩れるとは考えていないが、事態を重く受け止め、ほかの放射線量が高い地域での調査をどうしていくのか検討していきたい」と述べました。

この程度の筋書きがわからんバカが多いということが、わしゃわからん。ちったあ、コナンくんとかトリックとか土曜ワイド劇場とか相棒とか、あといろいろ見らんのか?


福島新発売
http://www.new-fukushima.jp/


チェルノブイリと同じ汚染地の農産物を売る、お笑い世界のバカ小売店リスト


「がんばろう ふくしま」応援店登録店舗一覧表 23年11月15日現在


「本日11月25日、この事件を知ってから、まだ販売している小売店からのんきに食べてる国民には、以後、放射線障害が出ても、国は一切の補償はいたしません、キリッ」

枝野前官房長官でした。



追記

ありゃ、本物が昨日の24日に経産省でこんなことを、

枝野経産相

福島県産やリンゴの即売会 枝野経産相が安全性をPR
転載 2011.11.24 14:00
福島県産農産物の安全性をPRしようと、経済産業省で24日、同県産のコメとリンゴの販売会が行われ、枝野幸男経済産業相が自ら販売するパフォーマンスを行った。同県産食品の風評被害で、打撃を受けた地元経済の活性化がねらい。

 試食した枝野経産相は「コメもリンゴも甘くておいしい」とご満悦の様子。風評被害については「県が検査し、(放射能が)無検出のもしか出回っていない。国としても色んなところで地道に(安全性を)PRしていきたい」と述べた。



無検出じゃなくて、無検査、まだ全品検査じゃなくてサンプル検査だぞ。 犯罪が次々増えて重くなるぞ。


福島新発売2


定期的なサンプル調査(不正隠蔽おぬしもわるじゃのう方式)であって、全品検査ではありません。

「全品検査に移行しても、「おぬしもわるじゃのう方式」は貫きます、よろしく。」

佐藤雄平福島県知事でした。


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「福島ゴルフ場の仮処分申請却下」福島政幸裁判長、おい、なんで福島なんだ

福島ゴルフ場の仮処分申請却下=「営業可能」と賠償認めず-東京地裁 時事ドットコム
転載
東京電力福島第1原発事故でゴルフコースが放射性物質に汚染され、営業できなくなったとして、福島県二本松市のゴルフ場「サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部岩代コース」の運営会社など2社が、東電に放射性物質の除去と損害賠償の仮払いを求めた仮処分申請について、東京地裁(福島政幸裁判長)は14日までに、申し立てを却下する決定をした。2社は同日、東京高裁に即時抗告した。
 決定で福島裁判長は、ゴルフ場の土壌や芝が原発事故で汚染されたことは認めたが、「除染方法や廃棄物処理の在り方が確立していない」として、東電に除去を命じることはできないとした。
 さらに、ゴルフ場の地上1メートル地点の放射線量が、文部科学省が子供の屋外活動を制限するよう通知した毎時3.8マイクロシーベルを下回ることから、「営業に支障はない」と判断し、賠償請求も退けた。(2011/11/14-20:08)



なんでよりによって、福島事件を福島裁判長が判決するのか? 政幸でまつりごとでしあわせになるのか? 呪いか?

ご意見番
転載
無主物
無主物2


終に、法の番人まで汚染されて、放射脳になったか、平和ボケ日本人に「自分の身は自分で守れ」ということを教えてくれているのだな。

いつまでも国や自治体や法律をあてにするなよ、自己防衛だ、あらゆる形で戦いは続けるけどな(疎開裁判など)。

敗戦と同じく、常に最悪の事態を忘れるな、生き残りのために。



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放射能はいらない
『推進派はいつも自然も人工も放射線は同じだと言う、【成る程その通りだ。 しかし、問題は放射線ではなく、人工放射性核種は濃縮する事にあったのだ】 』
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おれは、たぬきおやじじゃない 九州男児だ(大分県大分市)

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