原発事故から一夜明けた2011年3月12日、「なんでこんな所にいるんだ! 頼む、逃げてくれ」
防護服の男
引用
原発事故から一夜明けた2011年3月12日、原発10キロ圏内の海沿いの地域から、1万人の人たちが津島地区に逃れてきた
「なんでこんな所にいるんだ! 頼む、逃げてくれ」
みずえはびっくりした。
「逃げろといっても……、ここは避難所ですから」
車の2人がおりてきた。2人ともガスマスクを着けていた。
「放射性物質が拡散しているんだ」。真剣な物言いで、切迫した雰囲気だ

11年3月12日夕、菅野みずえは自宅に駆け戻り、防護服の男たちの話を避難者に伝えた。議論が始まった。
「本当に危険なら町や警察から連絡があるはずだ。様子をみよう」。やっと落ち着いたばかりで、みんな動きたくなかった。
しかし深夜、事態が急変する
多くは動きたがらなかった。しかし、一人の女性が「みんながいたら、菅野さん家族が逃げられないでしょう」といった。それで決まった。
「車のガソリンが尽きるところまで避難しよう」
深夜0時すぎ、若い夫婦2組が出発した。2月に生まれたばかりの乳児や、小さい子どもがいた。
夫婦は最初、「こんな深夜に山道を逃げるのはいやだ」と渋ったが、「子どもだけでも逃がしなさい」とみずえがいい、握り飯を持たせた。
翌13日の朝食後、再び話し合った。前夜「逃げない」といっていた若い夫婦連れが「子どものために逃げます」といった。年配の女性が、夫婦に自分の車を貸した
夕方までには、25人全員が福島市や郡山市、南相馬市などへそれぞれ再避難した。
みずえは近くの家で避難している人たちにも、防護服の男たちのことを伝えた。1人が笑って答えた
「おれは東電で働いていた。おれらのつくった原発がそんなに危ないわけねえべ」
男は原発事故からではなく、津波から
翌13日の朝食後、再び話し合った
このとき津島地区から10キロほどの地点で、30マイクロシーベルト用測定器の針が振り切れていた
12日朝、浪江町で交通整理などにあたる警官が防護服を着用した
「警官はなぜあんな格好をしているのか」
住民は不安を抱いた。浪江町議会議長吉田数博(65)は津島地区の警察駐在所を訪れ「不安を与えるので防護服は着ないでほしい」と要請した
吉田はいう「知らないのはわれわれだけだったんだ
行くあてはなかったが、「少しでも遠くに」と郡山市を目指す。
郡山市では、避難して来る人たちの放射能測定をしていた。みさ子に測定器が向けられると、針が大きく振れた。「私、死んじゃうの?」と測定係に叫んだ

原告404人で隣の福島第二原発について裁判を起こしたが負けた。そのとき仙台高裁の裁判長が述べた言葉を今もはっきり覚えている
「反対ばかりしていないで落ち着いて考える必要がある。原発をやめるわけにはいかないだろうから」
それから21年。原発は安全だという幻想はあっけなく崩壊した
仙台高裁の裁判長が述べた言葉を今もはっきり覚えている
「反対ばかりしていないで落ち着いて考える必要がある。原発をやめるわけにはいかないだろうから」
「もう実がなっても食べられませんね。汚染されてしまったから」
30年ほど前、町内の体育館を借り、東京の劇団を呼んで放射能漏れ事故をテーマにした劇をやったことがあった。原発事故で町民が逃げ惑うというストーリーだった。それが現実になった。
別の日男は家の周辺を測ってくれた。家の外で10マイクロシーベルト、居間で5.5マイクロシーベルトあった。平常値をはるかに上回る量だ
6月初めのある日曜日、男がポツリと言った
「今だからいうけど、ここは初め100マイクロシーベルトを超していたんだ。そのときは言えなかったすまなかった
玄関の雨どいの下を測ったとき、豊田が「ワッ、これは大変だ!」と叫んで立ち上がった。
ためらう豊田に、和代は「本当のこといってください」と頼んだ。
「2時間いたら、1ミリ吸います」と豊田は答えた。
豊田によると、そのときの線量は毎時500マイクロシーベルトを超えていた。2時間いただけで年間許容量の1ミリシーベルトを超える値だ。
具体的な数字を初めて聞かされ、大変なことだと初めて自覚した。和代はあわてて身支度し、豊田に見送られて家を飛び出した
数日後、ネコを引き取りに再び家に帰った。警視庁のパトカーが敷地に入ってきた。
「ここって高かったんですね」と30代ぐらいの警察官に聞いてみた。
「そうなんです、高いですよ。でも政府から止められていていえなかったんです」
警察官はそう答えた
みずえは大阪の高槻市で暮らしていたとき、阪神大震災を経験した。そのときはボランティアで仮設住宅を回り、お年寄りの健康相談をしていた。
「まさか、自分が仮設住宅に入ることになるとは夢にも思いませんでした」
「みなさんは浪江町民のようになる覚悟はありますか」
引用
馬場 ところが翌3月12日の朝5時44分頃、私が役場の災害対策本部でテレビを見ていると、初めて町が避難エリアであることを知りました。
馬場 国、県、東京電力から町へは一切連絡がありませんでした。福島第一原発から10キロ圏内には約1万6千人の町民が生活していました。あわてて消防車や広報車を出して、苅野小学校、大堀小学校、やすらぎ荘といった10キロ圏外の公共施設へ避難していただいたんです。前日には「一夜明ければ津波の被害に遭った人も助けられるかもしれない」と思っていましたから、後ろ髪引かれる思いで10キロ圏外への避難を呼びかけました。ところが12日午後3時36分に福島第一原発1号機が水素爆発したんです。「これじゃあダメだ」と思いました。
馬場 津島地区には3月15日まで約1万1千人が避難していました。3月14日11時ごろには3号機が水素爆発し、15日朝6時頃には2号機、4号機も爆発しました。「これ以上はもうダメだ。もっと遠くへ避難しよう」ということで、3月15日朝7時に二本松市の三保恵一市長(当時)をたずねて避難したいとお願いしました。すぐに避難所を40か所ほど用意してくれたので、午前10時からピストン輸送で西隣の二本松市に避難していきました
当時、津島地区近辺で計測された放射線量は、毎時270~300マイクロシーベルトぐらいの高いところもあったそうです。一番高いところの累積放射線量は、震災以降で300ミリシーベルトにもなっています。
------------------------------------

以上、懐かしのプロメテウスの罠 防護服の男と馬場町長の発言と上記のヨウ素放出データから、3月12日の初期被曝に断定される
1号機爆発の前後の事情やプルームやベントの流れは海へ行ったとばかり思い込んで、その後の話が3/15の大量放出というNHKにも混乱させられ、時系列と放出がこんがらがってしまって6年目に入っていた。
北西方向の汚染地図はすでに3/12には出来上がっていたのだった
浪江避難民は(この中には南相馬からの避難民も含まれていたが)3月12日に大量被ばく
その後の3/15日の大量被ばくは危機一髪幸運だった、逃れられていたのだった
二本松では被曝は大した変わりはないとも思うのだが、津島の田舎家よりはすき間風も少なかっただろうとも考えられる
よって、床次の3/12→3/15初期値変更事件は、却下される
これは科学的証明だ!
引用
原発事故から一夜明けた2011年3月12日、原発10キロ圏内の海沿いの地域から、1万人の人たちが津島地区に逃れてきた
「なんでこんな所にいるんだ! 頼む、逃げてくれ」
みずえはびっくりした。
「逃げろといっても……、ここは避難所ですから」
車の2人がおりてきた。2人ともガスマスクを着けていた。
「放射性物質が拡散しているんだ」。真剣な物言いで、切迫した雰囲気だ

11年3月12日夕、菅野みずえは自宅に駆け戻り、防護服の男たちの話を避難者に伝えた。議論が始まった。
「本当に危険なら町や警察から連絡があるはずだ。様子をみよう」。やっと落ち着いたばかりで、みんな動きたくなかった。
しかし深夜、事態が急変する
多くは動きたがらなかった。しかし、一人の女性が「みんながいたら、菅野さん家族が逃げられないでしょう」といった。それで決まった。
「車のガソリンが尽きるところまで避難しよう」
深夜0時すぎ、若い夫婦2組が出発した。2月に生まれたばかりの乳児や、小さい子どもがいた。
夫婦は最初、「こんな深夜に山道を逃げるのはいやだ」と渋ったが、「子どもだけでも逃がしなさい」とみずえがいい、握り飯を持たせた。
翌13日の朝食後、再び話し合った。前夜「逃げない」といっていた若い夫婦連れが「子どものために逃げます」といった。年配の女性が、夫婦に自分の車を貸した
夕方までには、25人全員が福島市や郡山市、南相馬市などへそれぞれ再避難した。
みずえは近くの家で避難している人たちにも、防護服の男たちのことを伝えた。1人が笑って答えた
「おれは東電で働いていた。おれらのつくった原発がそんなに危ないわけねえべ」
男は原発事故からではなく、津波から
翌13日の朝食後、再び話し合った
このとき津島地区から10キロほどの地点で、30マイクロシーベルト用測定器の針が振り切れていた
12日朝、浪江町で交通整理などにあたる警官が防護服を着用した
「警官はなぜあんな格好をしているのか」
住民は不安を抱いた。浪江町議会議長吉田数博(65)は津島地区の警察駐在所を訪れ「不安を与えるので防護服は着ないでほしい」と要請した
吉田はいう「知らないのはわれわれだけだったんだ
行くあてはなかったが、「少しでも遠くに」と郡山市を目指す。
郡山市では、避難して来る人たちの放射能測定をしていた。みさ子に測定器が向けられると、針が大きく振れた。「私、死んじゃうの?」と測定係に叫んだ

原告404人で隣の福島第二原発について裁判を起こしたが負けた。そのとき仙台高裁の裁判長が述べた言葉を今もはっきり覚えている
「反対ばかりしていないで落ち着いて考える必要がある。原発をやめるわけにはいかないだろうから」
それから21年。原発は安全だという幻想はあっけなく崩壊した
仙台高裁の裁判長が述べた言葉を今もはっきり覚えている
「反対ばかりしていないで落ち着いて考える必要がある。原発をやめるわけにはいかないだろうから」
「もう実がなっても食べられませんね。汚染されてしまったから」
30年ほど前、町内の体育館を借り、東京の劇団を呼んで放射能漏れ事故をテーマにした劇をやったことがあった。原発事故で町民が逃げ惑うというストーリーだった。それが現実になった。
別の日男は家の周辺を測ってくれた。家の外で10マイクロシーベルト、居間で5.5マイクロシーベルトあった。平常値をはるかに上回る量だ
6月初めのある日曜日、男がポツリと言った
「今だからいうけど、ここは初め100マイクロシーベルトを超していたんだ。そのときは言えなかったすまなかった
玄関の雨どいの下を測ったとき、豊田が「ワッ、これは大変だ!」と叫んで立ち上がった。
ためらう豊田に、和代は「本当のこといってください」と頼んだ。
「2時間いたら、1ミリ吸います」と豊田は答えた。
豊田によると、そのときの線量は毎時500マイクロシーベルトを超えていた。2時間いただけで年間許容量の1ミリシーベルトを超える値だ。
具体的な数字を初めて聞かされ、大変なことだと初めて自覚した。和代はあわてて身支度し、豊田に見送られて家を飛び出した
数日後、ネコを引き取りに再び家に帰った。警視庁のパトカーが敷地に入ってきた。
「ここって高かったんですね」と30代ぐらいの警察官に聞いてみた。
「そうなんです、高いですよ。でも政府から止められていていえなかったんです」
警察官はそう答えた
みずえは大阪の高槻市で暮らしていたとき、阪神大震災を経験した。そのときはボランティアで仮設住宅を回り、お年寄りの健康相談をしていた。
「まさか、自分が仮設住宅に入ることになるとは夢にも思いませんでした」
「みなさんは浪江町民のようになる覚悟はありますか」
引用
馬場 ところが翌3月12日の朝5時44分頃、私が役場の災害対策本部でテレビを見ていると、初めて町が避難エリアであることを知りました。
馬場 国、県、東京電力から町へは一切連絡がありませんでした。福島第一原発から10キロ圏内には約1万6千人の町民が生活していました。あわてて消防車や広報車を出して、苅野小学校、大堀小学校、やすらぎ荘といった10キロ圏外の公共施設へ避難していただいたんです。前日には「一夜明ければ津波の被害に遭った人も助けられるかもしれない」と思っていましたから、後ろ髪引かれる思いで10キロ圏外への避難を呼びかけました。ところが12日午後3時36分に福島第一原発1号機が水素爆発したんです。「これじゃあダメだ」と思いました。
馬場 津島地区には3月15日まで約1万1千人が避難していました。3月14日11時ごろには3号機が水素爆発し、15日朝6時頃には2号機、4号機も爆発しました。「これ以上はもうダメだ。もっと遠くへ避難しよう」ということで、3月15日朝7時に二本松市の三保恵一市長(当時)をたずねて避難したいとお願いしました。すぐに避難所を40か所ほど用意してくれたので、午前10時からピストン輸送で西隣の二本松市に避難していきました
当時、津島地区近辺で計測された放射線量は、毎時270~300マイクロシーベルトぐらいの高いところもあったそうです。一番高いところの累積放射線量は、震災以降で300ミリシーベルトにもなっています。
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以上、懐かしのプロメテウスの罠 防護服の男と馬場町長の発言と上記のヨウ素放出データから、3月12日の初期被曝に断定される
1号機爆発の前後の事情やプルームやベントの流れは海へ行ったとばかり思い込んで、その後の話が3/15の大量放出というNHKにも混乱させられ、時系列と放出がこんがらがってしまって6年目に入っていた。
北西方向の汚染地図はすでに3/12には出来上がっていたのだった
浪江避難民は(この中には南相馬からの避難民も含まれていたが)3月12日に大量被ばく
その後の3/15日の大量被ばくは危機一髪幸運だった、逃れられていたのだった
二本松では被曝は大した変わりはないとも思うのだが、津島の田舎家よりはすき間風も少なかっただろうとも考えられる
よって、床次の3/12→3/15初期値変更事件は、却下される
これは科学的証明だ!
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ジャンル : 政治・経済